和の心 20150320 桂米朝師匠2

百年先も愛される噺を  桂米朝さん

 

 

昭和二十年代、存亡の危機に瀕した上方落語界に身を投じ、ひたすら、ただひたすら、己の落語を追い求めた桂米朝。

時代の遺物にされかかった多数の演目を蘇らせ、次世代を担う弟子、孫弟子を育成し、メディアと落語を結びつけた落語の巨人である。

百年先も、親しみ愛される噺を語り継ぐ落語家を排出するのが私達の役目。

(文:米朝事務所より・写真:時事通信)

米朝師匠、長い長い間本当にありがとうございました。

ゆっくりとお休みください、そして、たまには喝をいれにお越しください。

 

落語とは、町民の生活や、お伽話〔おとぎばなし〕などを滑稽な話として語るもので、噺〔はなし〕の結末にオチがつくのが特徴です。

大阪・京都を中心とする関西圏(上方)中心に発達した上方落語と、江戸(東京)で発達した東京落語があります。

 江戸時代には「士・農・工・商」という四つの身分制度がありました。

落語はその中でも「工・商」である町民と呼ばれる低い身分の人々の間で生まれました。

その為、落語の噺は、毎日のつらい生活を一生懸命生きていた人々の知恵が笑いと一緒に語られています。

上方落語は、もともと屋外のざわめきの中で、噺を聞く事を目的としてない通りすがりの人々も相手にしていたので、とにかく目立つ必要がありました。

そのため、小道具や鳴り物を使うなど、東京落語よりも比較的派手なものが特徴です。

さらに、上方言葉で聞き手に語りかける話法をとり、愛嬌・サービス精神が旺盛で、常に聞き手とのコミュニケーションを大切にしています。

一方、東京落語は、座敷ばなし(※)が始まりで、少人数を相手にした噺なので、簡潔でさらっと噺す事が粋〔いき〕なものとされています。

聞き手の反応をあまり気にせず、噺家〔はなしか〕のペースでずんずん噺を進めていくので、ラジオで放送するには、上方落語よりも適しています。

※座敷ばなし…噺の名人たちが武家や町人の家の座敷で「おとしばなし(オチのあるはなし)」を演じる事。

 落語が一芸として世に出たのは、今から約300年前、江戸時代中期と言われています。

上方では京都の露の五郎兵衛〔つゆのごろべえ〕・大阪の米沢彦八〔よねざわひこはち〕という人達が、道端や神社の境内に舞台を設けて多くの人々に向けて自作の噺〔はなし〕を披露して、銭を稼いでいました。

これが上方落語の始まりであると言われています。

一方、江戸では、「江戸落語の祖」と呼ばれている鹿野武左衛門〔しかのぶざえもん〕という人物が、諸々の屋敷に招かれ、お座敷芸として噺を披露していました。

これが江戸落語の始まりです。

その後、江戸時代末期に初代三笑亭可楽〔さんしょうていからく〕が登場し、一定の場所で銭を取って多くのお客さんに対して噺すという、寄席興行が始まりました。江戸中に寄席が次々と増え、庶民の気軽な娯楽として人気を集めるようになりました。

 (文:日本文化いろは辞典・http://iroha-japan.net/iroha/C04_vaudeville/06_rakugo.html)