和の心 20150504 風神雷神5

和の心 正直と浄明の心 

 

 

私の尊敬する皇学館大学教授の白山先生の大学での講演です。

「正直と浄明の心」より抜粋

 

 神道について、そのこころを表現する概念として「浄明正直」ということばがあります。最初にこのことばについて考察してみたいと思います。

 浄明正直とは、きよく、あかるく、ただしく、直く(なおく)という意味です。天武天皇の時代に、この浄・明・正・直という言葉が、後世の正一位以下、つまり位階をあらわす言葉として採用されました。

 中世の伊勢神宮で展開した伊勢神道でも、清浄と正直というのが、神明奉仕の精神とされていました。

 今日、神職の階位として、浄階・明階・正階・権正階・直階というのがあります。これも神明奉仕の精神を表す概念として用いられているものです。

 直階というのは、神職としての第一歩です。次に権正階へと進みます。その次が明階です。そして最高位が浄階となります。

 「直」とは素直にとか、まっすぐに、という意味です。杉の木は、天に向かってまっすぐに伸びるので「すぐ木」と呼ばれ、その発音が短縮されて「すぎ」となったものです。

 「直」の上に「正」を置き、その上に「明」を置き、その上に「浄」を置いて、神明奉仕の精神だと言うのです。

 ところで、文化財は一般的には、有形文化財と無形文化財とに分けられます。有形文化財と無形文化財は文字通り形によって判別されます。

 しかし形がなく目に見えないという無形文化財であっても、芸能なり技術における出来ばえは、目に見えます。

 一種の形として存在するといってよいのです。しかし、これらとは異なる目に見えない文化財があります。それは例えていえば、神社の信仰です。職人なら職人かたぎというものも目には見えません。

 風は目に見えません。しかし風は存在します。それを、日本人は神がいらっしゃると考えました。

 俵屋宗達という江戸時代の画家は「風神雷神図屏風」という絵を描きました。

 それまでの中世の絵になかった斬新な手法の、あたたかみのある風神と雷神でありました。そのようなあたたかみのある絵を思いつかせる何物かは、風の神、雷の神のなかに秘められていたといえるでありましょう。

 原始の時代、弓という物体と矢という物体を操作することにより、いきものの命をうばうことができることを知りました。その行為そのものは生活上の営みです。しかし、そのような操作をおこなうとき、神を拝んで行いました。いまに伝わる弓道はそれです。柔道・剣道・合気道・居合道、それぞれ、神を拝んでいました。

 風の神がいらっしゃると信じることは信仰です。この信仰を持っているか、いないかということは、前述の職人でいえば、職人気質(かたぎ)を持っているか、いないかにあたります。日本人の気質の根底をつちかってきたものの一つが神道の信仰なのです。

 また、伊勢神宮式年遷宮では、神殿の建てかえに際し、建物の材料となる木の切り出しに際し、山の入り口で、出口祭という祭を行います。山の神の許しを得る行為です。

 そのような山口祭に始まって、立柱祭から上棟祭、最後に完工となります。すると、神体を新しい建物にお遷しします。それが伊勢神宮式年遷宮であり、千三百年前らか二十年おきに行われてきまして、昨年、第六十二回式年遷宮が行われました。

 今日までそれがなぜ行われてきたのかというと「神を祭るに清浄を以って先となす」という精神でありました。

 神様にはけがれのない御殿にお住まい戴きたいと願う心情から、真新しい神殿が建築されてきたのです。

 「清浄を以って先となす」とは、鎌倉時代の「倭姫命世紀」をはじめとする伊勢神道書が記してきた内容です。神明奉仕の体験から導き出された神道思想です。

 冒頭に触れたように、神職階位の最上階を浄階と言います。神道において「清浄」ということがいかに尊ばれてきたかということの証拠です。

 祭に先だって祭の場を清らかにすることが優先されるのです。神域の清らかさが保持されているからこそ、日本人は神域に踏み入るとすがすがしく、心が清められたと感じるのです。

 そういう中で、身も心も清らかでなければならないというのが、神職階位の最上階を浄階とするという理想的根拠です。

 

 身も心も清める。

とっても難しいことですが、煩悩の前に、いつも「ありがとうございます。」

この言葉が身も心も清めることへとつながっているのではないかと思います。

今日も、ありがとうございます!