和の心 生けるものすべてに宿る生命

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日本人がもともと持っている「草木も動物もみんな我々と同じ命を持ち合っている」という基本的な発想。

これは欧米の近代の発想とは全く違っています。

実は私たち日本人は、そういう発想は子供っぽいから、大人になったら捨てるべきだという教育を受けてきたのです。

そうした発想を捨て去ることが大人になることであるかのように、我々は教えられてきました。

しかし実は、それはもう一度考え直さなければならないことではないでしょうか。

むしろ、草木虫魚、この世に生きるものすべて、その生を共にしているんだという、日本人がかつて持っていた気持ちを、私たちはもう一度とらえ直す必要があると思います。

現に、古い伝統行事の中にはこうした考え方が残っているものがあります。

神社のお祭りも、稲を命とした祭りも、じつは基本的にはそれであり、「稲の命をいただいて神と共に人が活かされている」という考え方からきています。

そればかりではなく例えば、神社のお祭りの中には、仏教の影響からか、放生会などもありまして、ふだん命をいただいている魚や動物の命を絶つという罪を拭いたい、あるいはその霊を慰めたいという気持ちから行う行事が、たくさん残っています。

今でも、漁村には魚供養碑があり、ふだん魚をとって生活を営む人たちが定期的にお魚の供養をします。

土用にはうなぎ屋さんがウナギの供養をする、そういうように、自分たちがふだん世話になっている動物や食べ物を、ある一定のときに慰霊をして、おかげを感謝するわけです。

それだけではなく日本人の場合は、道具のほうにもおよんでいます。

筆供養とか針供養は有名です。、それから、秩父でも近年は数少なくなっていますけれど、鍬や鋤などの農作業に使う道具をきれいに洗って旧のお正月、小正月にもてなしをしてお祭りします。

それを「道具の年とり」と言っています。

道具が年をとるということは、つまり、道具も命を持っているという考え方です。

ふだんお世話になっている道具類を、その日にはきれいにしてお祭りをします。

これを今までは、何かたわいない習慣のようにしか言わなかったのですが、実はそこに込められている生命観こそ、今後の環境問題のカギになると私は思います。

先ほどの、一般の人々の心にも響くような視点、草木虫魚との共生という発想につながっていくだろうと思うのです。

現代の生命科学は非常に進歩しました。

その成果の中でも忘れてはならない大事なことは、我々の命は遺伝子を通じてあらゆる素朴な動植物にもつながっているということ、それから、数億年前(原文のまま)におこった一つの生命の誕生以来、時間的にも空間的にもたいへんに壮大なサイクルの中で、我々一人一人が生かし生かされているんだという、一見たわいのない発想をもう一度見直すということです。

その中には実は、国連環境会議で主張されるような高遇な理想とつながるものがあるのだと私は思います。

(文:神道の世界:薗田稔著)

 

生き物は当たり前ですが、道具類にも命がある。

そこには日本人が古より続けている、全ての物に感謝する心ではないでしょうか。

自分ひとりでこの世を生きているわけはないのです。

全ての物の生命、お力をいただきながら、私たちは日々暮らしていけるのです。

それが何故か現代は、「私が」と大きな間違いをしている人が大変多いうように思います。

「私が」ではなく「おかげさまで」「みなさまのおかげで」「ありがとうございます」の思いではないでしょうか。

そう、環境問題もこの思いがあれば何も心配することはないのでしょうね。

 

 



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