私の大好きな所 葉室山浄住寺 京都

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

 

ご先祖様、いつもありがとうございます。

当りまえのことですが、一番大好きなところ。

2015081802

私が言うのもなんですが、本当に素敵なところです。

心から癒されますよ。

2015081804

今月20日にはお蔵を明けて巻物などを拝見しながら楽しもうと思っています。

また、毎月第三土曜日には煎茶を喫しながらいろいろと語りたいと思っています。

みなさん、お時間のある時は是非ともお出掛けください。

2015081807

以下、写真と共に浄住寺をお楽しみください。

2015081811

810年開創、嵯峨天皇の勅願時(ちょくがんじ)

(勅願時とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願時のこと。)

釈尊御入滅のみぎり、捷疾鬼という鬼神が釈尊の歯を一本奪ってこれが韋駄天に渡り、更に律宗の祖である中国の道宣律師(どうせんりっし)(596~665)に渡りました。

2015081813

その後わが国に渡り嵯峨天皇(在位810~823)により浄住寺に安置し奉った(以上「太平記巻の八」より)と記されています。

当時は「常住寺」と称していました。

開山は慈覚大師円仁(天台宗)です。

20150818340

寺伝では常住寺旧跡とも、嵯峨天皇仏舎利安置所とも伝わっています。

円仁の位牌はありますが、天台宗時代の資料は太平記以外にはありません。

尚、太平記には天台宗ではなく律宗と記されています。

2015081814

釈尊の歯は現寿塔の下の石窟に納められて、石窟の上に巨石が置かれました。

1261年葉室定嗣(さだつぐ)により中興されて「浄住寺」と改めました。

中興開山の興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)(律宗)が緒堂宇を完成して律宗の有力寺院となりました。

浄住寺境内図に広大な境内に緒堂宇が完成した様子が見えます。

1567年に炎上して後復興の様子はありません。

2015081816

律宗寺院であったことを証明する資料は、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記(かくじんかくしょうき)」他多数あります。

これを開創とする説もあります。

1687年葉室頼孝(よりたか)により再興。

黄檗宗(禅宗)になって現在に至ります。

2015081817

本尊は、釋迦牟尼佛坐像です。

再興開山は、大慈普応禅師鉄牛道機(黄檗宗)です。

寿塔、開山堂、祠堂、佛殿、天王殿、大門、東方丈・宝蔵、禅堂、斎堂、鐘楼、鼓楼、庫裏、その他整って黄檗宗の有力寺院となりました。

東方丈は伊達綱村の寄進によるもので、綱村の幼少時(幼名:扇の君)の遺館でした。

2015081819

全山度々消失・復興を繰り返した様子がありますが、やがて荒廃して明治の一時期には無住になった様子です。

鉄牛禅師の遺骨は、釈尊の歯と共に石窟に納めて、その上に現寿塔が建てられました。

寿塔の内部には巨石が現存しています。

2015081825

現在残っている堂宇は、開山堂が本堂兼禅堂として使われており、祠堂の一部が開山堂になっています。

寿塔、宝蔵は昔のまま残っています。

東方丈は現在は長さ方向に少し縮小されて方丈として残っています。

2015081820

このうち寿塔、開山堂、祠堂、本堂兼禅堂は京都市指定有形文化財です。

境内全体は、京都市指定環境保全地区です。

境内全体と裏山の当山所有地は、京都府指定風致保全地区です。

2015081826

現開山の鉄牛禅師は、老中の稲葉政則候が弟子になった縁で、千葉県の湿地帯であった椿沼を干拓して農地として八万石の米を生産し、静岡県富士川の堤防を改修して五千石の米を生産したと記録されています。

今坐っている方丈は、右に記した如くに伊達綱村の幼少の遺館であり、伊達綱村が鉄牛禅師に寄進したもので、仙台か江戸から移築されたものです。

上げ間は、伊達騒動の毒殺を企てられて食事が出来ない扇の君が「腹が減ってもひもじゅうない」と言った場所です。

2015081834

上げ間には「武者隠し」があり、往時は中に武士が潜んであおり、刺客が来たときに扇の君を中の武士に渡すための丸い穴があります。

仙台か江戸では地下道が造られておりそこから逃げたのです。

2015081841

 

 

 



  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

Translate »