和の心 20151215 言葉

日本語って?

 

原初、日本には話しことばはありましたが、これを記述する文字はありませんでした。

漢字という異文化・異民族の文字を利用しなければならなかったのです。

日本最古の古典籍として知られる「古事記」は和銅五年(712)に太安万侶によって編纂・上梓されたものですが、漢字を使用して、やまとことばを記述することの難しを語っています。

 

文字による記述が始まる以前は、当然ながら口承によって伝承されてきました。

「誦み習わす」という表現の中にもそうした痕跡を汲みとることができます。

近年なって記録されたアイヌ民族の「ユーカラ」などから類推しても、人間の記憶力、人から人への伝承力にはたいへんなものがあり、文字による記録にたよる現代人からは想像を絶するものがあります。

太安万侶という文武両道の知識人は、口承のやまとことばの世界を漢字という文字を使って記述しました。

漢字の音だけを借りて記述すると「事の趣」は長々しくなってどうもいけません。

訓読して記述すると「詞(ことば)心におよばず」という状況になります。

どうもことばの真意と文字の意味がぴったりと一致しないのです。

素朴な先祖の歩みを書きとめるには、音訓交えて用いるのが最もよいだろうとの結論を得て、「古事記」を完成させました。

実はこうした先人の苦労があるので、やまとことばの非常に古い世界を再構築、あるいはすいていできるのです。

わたしたちにとっては、漢字もすでに日本語の一部となっていて、漢字という文字のもつ意味で物事を考えがちですが、古代の人々は、やまとことばに当たる漢字を一つ一つ吟味し、選択しました。

しかも、ことばと心がぴったりとしない違和感をもちながら。

その違和感の襞(ひだ)をかき分けていくと質朴な先祖の生活が見えてきます。

ひとつのやまとことばにいくつもの漢字を当てながら、うまく漢字を使いこなしてきた先祖の知恵に改めて気づき学びつつ、私は古代日本語の世界に入っていきたいと思います。

 

「ことば」(言葉)の語源は、「言端ノ義、口ニアラハルル意ナルベシ」(「大言海」)といい、言(コト)は事(コト)でもあり、「事ハ、皆、言ニ起ル」と説明します。

すなわち、ことばの背景には必ず事実が存在します。

だから、やまとことばの原義や語源をたずねてみれば、事柄を先祖たちがどのように認識していたかがわかるはずです。

 

ことばが人を育てるともいいます。

私たちは、日本語を幼児期から意識することなく学ぶことにより、実は日本人になっています。

だからどの民族も国語を大切にしてきました。

私たちは、日本語の世界を獲得することにより、実は神道の物の見方を感得しています。

私たちの世代は、戦前への反動と占領政策により、神道といえば軍国主義と結び付けられた偏見にもとづく国家神道というイメージが強く、いまだに神道は風あたりが強いです。

しかし、二千年以上の神社の伝統の中では、明治維新後終戦までの八十年も、戦後七十年も、ごく短い時間です。

柔軟な神道の世界を知り、神道や神社に対する認識をぜひ新たにしたいと祈願するものです。

(文:日本語と神道・茂木貞純著)

 

今、聞いたことをすぐ忘れる私。

メモしてもどこにメモしたか探し回る私。

文字のない時代の人たちは、ちゃんと頭に入れてたんですね。

先ずはちゃんと聞いて、頭に入れること。

大切なことですね。