和の心 20160129 契沖 本居宣長

和の心  「出会いを生かす」 本居宣長

 

予(よ)幸いにこの人の書を見て、さっそくに目が覚めたゆえに、この道の味、自ずから心に明らかになりて、近世(きかきよ)の様の悪(わ)ろき事を悟れ。これひとえに沖師(ちゅうし)のたまもの也。

(現代語訳:私は幸いにもこの人(契沖先生)の本を見て、たちどころに目が覚めたため、和歌の道の妙味が自然と理解でき、通説のだめなことがわかりました。これはみんな契沖先生のお蔭です。)

(排蘆小舟(あしわけおぶね)

 

現代人はどうも心が平板になってしまったようで、驚くこともなければ感動することも少なくなりました。

昔のことを調べていてとてもうらやましく思うのは、人々の弾けるような心の躍動感に触れたときです。

宣長は素晴らしい出会いを幾度も経験しています。

医術修行のために上京した直後に読んだ契沖の「百人一首改観抄」もその一つで、引いた文章はそのときの体験です。

ところで、いったい契沖先生とは何者なのでしょう。

契沖(1640-1701)は、宣長よりほぼ百年前の人です。

摂津に生れ、真言宗の僧として高野山で修行し、各地を暦編。

その後、仏教書や和漢の古書を渉猟した深い学識で持って古典を研究し、「古今集」や「伊勢物語」の注釈、仮名遣いの研究など優れた業績を残しました。

中でも、水戸藩主徳川光圀の命で執筆した「万葉代匠気(まんようだいしょうき)」(「万葉集」の注釈書)は有名です。

しかし残念なことに著作は出版されず、知る人ぞ知るという存在でした。

宣長は契沖のどこに感動したのでしょうか。

一番簡単明瞭な評価は、「百人一首改観抄」への宣長の書入れです。

「契沖の説は証拠なき事を言わず。」

証拠をあげて物事を考えていく契沖の学問は、先入観や常識にとらわれず自分の頭で考えようとする宣長にはとても魅力的な方法に映ったのです。

それ以前の学問といえば、「古今伝授」に象徴されるように、先生の節に対しての批判を許さない、あるいは質問を認めないという窮屈なものでした。

それに対して宣長は強い閉塞感を感じていましたが、やっともやもやした思いが払拭され、すっきりと目が覚めたのです。

晩年、こんな発言をしています。

「学問は次々と批判されていくもので、契沖もその後の賀茂真淵から見ると「鴑胎(どだい)」みたいなものだ」と。

鴑胎とは役に立たない馬、駄馬のことですから、ずいぶんひどい言いぐさだ、失礼じゃないかと思われる人もいるでしょうが、宣長はこのような気持ちで学問に臨んでいるのです。

その真淵も私から見たら同じようなものだし、さらに加えるなら、私宣長も後世の人から見たら駄馬と同じだという覚悟を持っていたはずです。

学問は更新されていくものです。

しかし宣長の契沖先生への、また賀茂真淵先生への感謝と尊崇の念は別です。

微動だにしませんでした。

(文:日本人の心の言葉 本居宣長:都¥吉田悦之著)
(写真:契沖・賀茂真淵・本居宣長対座図模写 東大史料編纂所所蔵から)

 

真に「日本とは何か」を深く考えようとする時、我々が絶対に無視することのできない思想家がいるのではないでしょうか。

それは外ならぬ、国学の大成者にして、近世最大の思想家である本居宣長です。

我が国の歴史に存在する数多の優れた思想家の中でも、宣長ほど「日本とは何か」を深く、生涯に亘って探求し続けた学者は少ないでしょう。

その業績の巨大さ、内容の奥行きの深さはもとより、何よりも、その業績の殆どが、「日本とは何か」を闡明せんとした内容であることにおいて、宣長は、第一に特筆されるべき存在といえましょう。

思えば、千年にも及ばんとする中国思想と仏教思想の圧倒的な侵蝕の中にあって、我が国の「古道」の復活のため、一人立ち上がったのが本居宣長でした。

そして、これら外来思想の正体を徹底的に明らめると共に、一切の私心を廃した古事記の探求を通して「大和心」を闡明し、ついに国学を大成したのでした。

それと同様に、まさに西洋近代思想の圧倒的侵蝕に曝されている今こそ、国学の再興が、何よりも求められているのではないでしょうか。