追儺(ついな)と節分

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追儺(ついな)・節分

◆節分と豆まき

「節分」とは「季節の変わり目」という意味で、もともとは立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれの前日のことを言ったのですが、現在ではもっぱら立春の前日を言うようになっています。

平安時代の節分には特別の行事はなかったようですが、わずかに「方違〔かたたがえ〕」をした記録が残っており、これは節分が「厄を祓うべき日」と考えられていた証と考えられます。

中国ではこの日、人に疫をもたらす鬼を追って、来たるべき春に福を求める風俗がありました。

「桃の弓に棘〔よもぎ〕の矢」を射て、五穀・小豆、ときに小石をも撒いたといいます。

これが現代日本で行われる豆まきの起源のようです。

春を迎えるにあたって鬼を追う行事は、わが国では宮中の「追儺〔ついな〕」の行事として、大晦日に行われたものに起源を見ることができます。

これには新年を迎える準備の意味がありましたが、陰暦の正月は立春とも日が近いために、室町時代のころから、春を迎える立春の前日、つまり節分の行事となってゆきました。(この事情については、項を改めて御説明しましょう。)

はじめは「追儺」と同じように、「桃弓・葦矢」を持った公卿〔くぎょう=上級貴族〕が大舎人〔おおとねり=宮中の雑役係の役人〕の扮する鬼を追うものでした。

しかし、『看聞御記』という書物の応永32年(1425)1月8日の条に「女官・御所侍が大豆を打った」と見えていることから、応永年間(1394-1428)のころには宮中で節分に豆を撒くことが始まっていたことがわかります。

厄払いに米を撒くというのは日本古来の風俗ですが、豆を撒くようになったのは、この室町時代に中国大陸でも行われていた風俗を模したものと考えるのが妥当でしょう。

また、年齢の数だけ豆を食べるという風俗もありますね。

この起源には、次のようなものが考えられます。

『古事記』などの日本の神話によると、身の不浄や罪悪を祓うために身に着けていた衣服を捨てるという風俗が、古くから日本にあったことがわかります。

これが節分の厄払いの風俗と結びついて、節分の日に自分の衣服を街路に棄てることで厄を祓うことがありました。

さらに、こうして捨てた衣服が乞食者への施しとなることから、ついには自分の年齢の数の銭を包んで落とすことにもなりました。

後水尾院当時には、天皇は御年の数だけの豆と鳥目〔ちょうもく=銭〕とを包んだものを撫物〔なでもの=厄払いのために身の厄を移して捨てるもの〕とされて、これを勾当内侍〔こうとうのないし〕に渡すと、勾当内侍は後を顧みないようにしながらこれを持って退くとあります。

このあたりが年齢の数だけ豆を食べるという風俗に繋がるものと考えられます。 (なお、「勾当内侍」とは掌侍〔ないしのじょう=内侍の三等官〕の首位で、「長橋局」などとも呼ばれ、奏請や伝宣を司った女官のことです。)

 (写真:吉田神社の節分祭:http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/event/sb-yoshida.htm

 

 



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