一木一草に神様がやどる <和の心>

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叔父の絵本「にほんよいくに」の第三巻が発刊されました。

今回は神社のおまつりです。

その中の一つ「一木一草に神様がやどる」です。

 

はるか昔の日本人の祖先たちは、自然環境に恵まれた日本列島に住み続けるうちに、自然と共生しようという独特の生き方を見つけてきました。

小さな草や木にも、あらゆる生き物や、人の力の及ばないような大きな岩や山にも、すべてのものに神様がおられるという考え方です。

周りにあるそういう自然のおかげで生かせれているという、すばらしい生き方を身につけてきたのだと思います。

たとえば朝、お日様が上がると太陽を拝み、今日一日が無事に生活できるように願いました。

私たちは、毎日朝が来ると太陽が昇って、夕方沈んで、また次の朝に昇るのを、当然と思っていますが、この太陽の恵みにも忘れず感謝してきました。

私が子どものころは、お米は日本人の命であり、農家の方が一年中、汗水たらして作られた大切なものですから、一粒のお米であっても大切にしました。

神社では、豊作を願って一年中お祭りを行い、秋になってお米が出来ると、新米をまず神様にお供えしてから、人々がいただくという習慣がありました。

また、毎日ご飯を食べる時にも、神様に感謝して食事をいただいておりました。

神社では、その習慣が今でも残っております。

 

生物のすべてに神様の命がやどると思っているので、木を切る時でも、神様に「木を切らせていただきます」とお断りしていますし、たとえ小さな虫でも、意味も無く殺すことはしませんでした。

何かで動物を殺したとしても、かわいそうに、申し訳ない、と思ったものです。

野に咲いた花にもやはり、そこに神様がおられるような気がして、持って帰ろうという気はしませんでした。

けれど今の人は軽い気持ちで取ってきて、自分の家に植えたりしています。

そうではなくて、花ひとつでも「きれいに咲いているなぁ。やっぱり、神様のお力ですばらしく咲いているんだな」という感動が、日本人だと思うのです。

 

ところがだんだんと、外国のりくつばかりの教育が入ってきて、日本人の考え方も変わり、外国と同じように、それぞれを対立の関係でとらえる考え方になりました。

まるで自分の力だけで生きているみたいに、思い上がってしまいました。

自然や生物に対する思いやりとか、日本人らしい感動とか、こういう心をみんな失った、殺伐とした世の中になってしまいました。

平気で人殺しをしてみたり、たいした理由もないのに動物を虐待してみたり、恐ろしいことです。

 

一木一草にも神様がやどるという考え方とか、次にお話しする八百万の神さまのことは、とてもすばらしいと思うのです。

どうしても、もう一度原点に戻って、こういう日本人の心を子どもたちに伝えないといけません。

そして、いろんなものの命、友だちの命、自分の命も、大切にしてほしい。

命あるもののすばらしさを知ってほしいと思います。

((文:にほんよいくに③神社のおまつり:元春日大社宮司・葉室頼昭著)

 

神社には一年中たくさんのおまつりがあります。

なぜなら、ずっと昔は、神社のおまつりが、そのまま毎日の生活にむすびついていたからです。

みなさまの普段の生活のなかにも、神社とそっくりなところがたくさんあります。

目に見えない真実の世界がうけつがれているからです。

 

ありがとうございます。

 

 



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