千利休

 

昨日、随竹庵の初釜にお招きいただきました。
初めてのことで知らないことばかり、たくさん学ばなければ。

和の心 千利休 2014.01.16

 


昨年末には映画「利休にたずねよ」が公開され、今年はお茶が楽しみですね。

茶道といえばやっぱり「千利休」
千利休(幼名、与四朗)は大永2(1522)年、泉州の堺で生まれ、後に「三大宗匠」の一人と呼ばれる茶人ですね。

利休の父は堺で高名な大商人であり、彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入ります。
18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開きました。
紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。
珠光はあの一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視ししました。
大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していきます。

今井宗久、津田宗及とともに境を代表する茶人となりました。

そして、織田信長と出会い運命が急展開します。
茶の湯は人の心を動かすもの。
それを政治に活用していた信長は天下統一のため堺を手中におさめ利休ら三大宗匠を茶頭(茶をたてる役)として仕えさせました。

本能寺の変で信長が殺された後、利休は豊臣秀吉に仕えます。
その後、「利休」の名を天皇から与えられます(知らなかった!)。
秀吉に信頼・重用されていきます。

秀吉に仕えてからの利休の発言は絶大で、茶人、商人の域を超えた存在となっていきました。
秀吉の要望に応え、派手な黄金の茶室なども手がけました。

一方、利休は質素に徹する「わび茶」を追求し、完成へと向かっていきます。
一方で秀吉の独裁的な気質は、利休の権力にも脅威を感じるようになっていました。

そして天正19(1591)年、利休は突然切腹命令を受けます。
何かが秀吉の逆鱗に触れたといわれていますが、利休は一切釈明せず、謝罪もせずに受け入れました。


利休が追及した「わび」とはなんでしょうか。

ひと言で言えば簡素・静寂・不完全な美。
元来「わびしい」とは貧しいという良くない状態を表す言葉ですが、それを価値のあるものとしたのが利休だといわれています。

二畳ほどしかなく、すべての飾りを廃した茶室は一見わびしいけど、そこで精神豊かさを追求したんでしょうか。
今の日本人にもこの精神を受け継がれていきたいですね。

(参考:産経新聞 読めばあなたも教養人 茶道)