「時代の寵児 狩野永徳」 浄住寺雲龍図より

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こんにちは。

 

浄住寺から素敵な和のことを。

私の大好きな浄住寺の雲龍図。

狩野永岳の作品です。

狩野派ってご存知ですか。

狩野派のお話し、今日は狩野永徳のお話し。

 

「時代の寵児 狩野永徳」

 

狩野永徳は、一瞬の光芒のような人生を送った人だったと思います。

彼が生まれたのは、天文十二年(1543)。

後に御用を勤めることになる信長より九歳年下、秀吉より六歳年下。

この二人の「天下人」にとって、永徳は弟のような存在だったのでしょう。

 

 

 

永徳九年(1566)二十四歳で聚光院の襖絵を描いたとき、まさに「永徳参上!」。

この聚光院の襖絵は、極端に言えば、1980年代のニューヨークのグラフィティ、あるいは、日本の暴走族がスプレーで書いた、極めつけに美しいロゴのようなものだったかも。

そう永徳はサラブレットの暴走族なのでした。

そんな気風は、当然、信長や秀吉に愛されることになります。

彼らもある意味、暴走族だったから。

聚光院は、三好家を檀那とする塔頭ですが、そこに描いた永徳の絵の評判を、後の天下人は当然聞きつけたことでしょう。

「あんな絵、俺のところにも描いてくれよ」みたいなことになって、永徳は当時のメディアの寵児となったのですね。

 

ありがとうございます。

 

安土桃山時代に完成をみた「漢」と「和」が融合する絢爛豪華な絵画。

そのスタイルは江戸時代に入ると、富裕な町人層にまで鑑賞者を広げながら、一層洗練されていきます。

江戸時代前期の絵画の一番の特色は、大胆なデザイン性にあります。

京都の町絵師出身の俵屋宗達と、徳川幕府の御用絵師を務めた狩野探幽の立ち位置は大きく異なりますが、ともに余白を効果的に用いた洗練された構図感覚が持ち味でした。

京都に残った京狩野を代表する山雪の計算されつくした画面構成も、時代の指向に沿うものでしょう。

江戸時代は絵画だけではなく、「江戸しぐさ」という言葉もあるように、古からの日本人の相手を思いやる文化が凝縮、完成されました。

あらためてここで、江戸しぐさも書いてみたいと思います。

この日本人の心、和の心、「ありがとう」から始まるあらゆる事、あらゆる物に対する感謝の心が広がりますように心より願っています。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

これからも浄住寺ともども、宜しくお願いいたします。

(旧文 2013.08.21:再編集)

 

参考
狩野派二代目 元信」
「狩野派とは何か」
「琳派と狩野派どうちがうのか」

 



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