永徳一番弟子「狩野山楽」

 

 

永徳一番弟子「狩野山楽」



力強く、破格のスケールを誇った狩野永徳。


天才亡きあとの狩野派は時代の好みをすくいとり、様々に展開していきます。

画一的な教育システムから独特の歩みを始めた絵師もいました。

その中の一人が、誇り高き永徳一番弟子「狩野山楽」です。

 和の素敵 2013824 狩野山楽

 重要文化財 狩野山楽「龍虎図屏風」 (京都・妙心寺)


山楽は狩野の血筋ではありません。

若くして秀吉に画才を認められて狩野永徳の門人となった絵師です。

1950年、永徳が東福寺法堂天井画の制作途上に倒れると、あとを引き継ぎ絵を完成させたのが山楽でした。
自他ともに永楽の一番弟子と認められたのでしょう。

しかし狩野家から豊臣方につかせられ、大阪城落城後は落ちのびて、ようやく命を助けられるという悲運に遭います。
永徳譲りの雄大な桃山気分の作風は、次第に装飾的で繊細な表現に変わってゆきます。


晩年に二条城行幸御殿の障壁画にも携わりますが、中心となるところは「江戸狩野」に独占され、格下の部屋を受け持たされました。


以降、山楽一門は京都で活躍し、「京狩野」と呼ばれます。