「和の変」 神様のこと その2 

「和の変」

 

 




じつは、日本の風景や習俗、歌謡、言葉・・・などには
「変なこと」や「変化したこと」がけっこうあります。
私たちが目にしたり聴いたりしているモノやコトのなかにある、
ふだんは気づかない「日本の変」をテーマにせまります。

 

 

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神様のこと その2                    (黒岩 直樹 記)
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日本史も古代史となると文献が乏しく、諸説紛々で定説がありません。
ざっといって、紀元前後に大陸あるいは半島から米作技術をたずさえた一団が渡来し、これをもって縄文時代から弥生時代に移行した、というのは定説といえるでしょう。
山を神とみなす、あるいは山にいる神を崇めるという山岳信仰の起源はどちらでしょうか?
弥生人が稲作とともに列島にもたらしたものか、もともと縄文人がもっていた信仰なのか?
文献などない問題なので考えるしかありません。

まず、弥生農耕民の居住地を考えます。
陸稲か水稲かはわかりませんが、水をコントロールできる田を開発するとすれば、平地しかないでしょう。ただ低湿地では稲は育ちにくいでしょうから、山の麓を切り開いて田としたのでしょう。
水はけのよい地なら平野部でもよい。
いずれにせよ山の中にはいっていくことはなかったはずです。
縄文人は狩猟や採集、原始的な農耕で生計をたてていたと考えられます。
平野部に集落を構えることはあったとしても、その主な経済活動は山の中でしょう。
あるいは開墾される以前の森なら平野部もあったかもしれませんが。
山とのかかわりを考えると「山の神」信仰は縄文起源とするほうが蓋然性が高い。
稲作に必要なのは太陽と水なので、弥生人は太陽神や水をコントロールする竜神を祀ります。
それプラス山の神まで固有に祀っていたとは少し考えにくい。

さらに可能性としては、山の神信仰の発生は縄文や弥生ではなく、もっと後代の、たとえば大和朝廷の時代や飛鳥時代に発生したとも考えられます。
その場合は縄文人に固有の信仰はなかったか、あったとしても消滅したということになります。

山の民というものが日本にはいたようです。
マタギとよばれる狩猟民は今もいるようです。
山中を移動して箕などをつくって農民と物々交換して生きていたサンカとよばれる人たちは、昭和中ごろまで、つまりほんの半世紀前までその存在が確認されています。
その風俗もその手の本には紹介されていますが、山の神を祀っていたことは間違いない。
マタギは、農民が「米の味にはもう飽きた」として山での熊狩という苛酷な生業に転職したのでしょうか。
サンカはよほど箕作りが好きな人たちが農耕を放棄して厳しい山中生活を選んだのでしょうか。
どちらもそうではありますまい。
弥生人が米作という魅力的な産業を列島に展開していったころ、狩猟や採集経済の縄文人もぞくぞくと稲作に転業していったでしょう。
あきらかにその方が食いっぱぐれがないからです。
しかし、頑固な縄文人もいたかもしれない。
どうしても山から出ようとはしなかった。
今となってはその理由は分かりません。
でも日本にはあきらかに山から出て農耕民に同化しようとはしなかった者が存在した。
そして里に住む人たちは、鬼よ天狗よ山姥よといって彼らをたいそう恐れたのです。
・・・山の神を祀る習俗は縄文に起源をもつものと考えてもよいのではないでしょうか。

そこであらたな疑問が生じます。
農民は山の神ではなく、太陽神や竜神を祀ったはずです。
そのための祠も造ったでしょう。
どうして縄文起源の山の神をわざわざ田の神に変身させて、山から田まで移動していただくようになったのか?

一般に民族間で紛争があった場合、勝者は敗者の神を殺すと考えられます。
しかし人間の歴史はもっと複雑なのでしょう。
敗者の信仰や風習がその民族とともに生き延びて、勝者のそれに取り込まれるのはありうることでしょう。
同じことが列島でもおこった。
縄文から弥生への移行は、軋轢や闘争ではなく同化だとすればより一層そうです。
山から出て米粒を地面に撒きはじめた人は太陽を神とあがめながらも、従来の山の神への信仰は捨てられなかったでしょう。
米を携えて列島に渡来した人たちも、世代を重ねるうちに太陽神のほかに、大切な水を供給してくれる山への信仰を取り入れていったのでしょう。
そして、おそらく仏教建築を模倣してつくられた神社での祖先神への信仰活動以外に、無意識に「別のもの」として山の神信仰をパラレルに実践してきたのだと考えます。
原始信仰といい、山岳信仰といい、農業が中心産業でなくなった現在、それはもはやわたしたちとは無縁のものになったのでしょうか。
いやいやそうではありますまい。
明治初期に17 万もの山伏とよばれる人たちがいました。
国家神道を新設して国家を運営しようという政権にとっては、廃仏毀釈しようにも、神道なのか仏教なのか道教なのかわけのわからん山伏は目障りな存在だったと思われます。
徳川のスパイかもしれないし、民衆を扇動する存在になるかもしれない。
とうとう山伏(修験道)は禁止されてしまいます。
現在でも山伏装束で修業している人は多くいますが、あれは基本的に趣味の活動(レジャー)です。
しかし、山での厳しい修行をおこなうこの修験道こそは純粋に山岳信仰を継承するものだといえます。

お遍路はどうでしょう。四国の八十八の札所を巡礼する人々の姿は今もとだえることはありません。
弘法大師と二人で周る証に「同行二人」(どうぎょうににん、と読んでください)と笠に墨書してあるので、空海がらみの宗教活動だということはあきらかですが、お遍路さんたちはみんな真言宗の宗徒なのでしょうか?
盧遮那仏(大日如来)に帰依するがゆえにあんな苦行をおこなうのでしょうか?そんなことはない。

弘法大師は平安時代に大陸にわたって日本に密教を伝えた偉いお坊さんですが、のちの鎌倉時代の親鸞や日蓮のように民衆向けの教えをひろめたわけではない。
朝廷に庇護してもらい、東寺や高野山をひらいただけです。
おなじように密教を伝えた僧に最澄(伝教大師)がいます。
比叡山をひらくという空海以上ともいえる業績を残すのですが、
このお坊さんには空海への「お大師信仰」のようなものはない。

実は空海は若い頃四国で山岳修業に励みました。
その出自(讃岐の佐伯氏)も山の民(蝦夷)ではないかという伝承もあります。
各所に残る伝説はまさにスーパーヒーローものであり、民衆(江戸期以降)の信仰はシャカやアマテラスをはるかにしのぐものがありました。
修行の霊跡をめぐる四国巡礼も、そのお大師さまに同化しようという素直な信仰心がなす行動でしょう。
役の行者が山伏たちのアイドル(偶像) ならば、弘法さまこそが民衆における最高のアイドルだったのです。
これも山岳信仰の末裔のひとつのような気がしてなりません。

                                                  (「神様のこと」完)