「和の変」  高砂や この浦舟に帆を上げて 

「和の変」

 

 




じつは、日本の風景や習俗、歌謡、言葉・・・などには
「変なこと」や「変化したこと」がけっこうあります。
私たちが目にしたり聴いたりしているモノやコトのなかにある、
ふだんは気づかない「日本の変」をテーマにせまります。

 

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   高砂や この浦舟に帆を上げて               (黒岩 直樹 記)
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  高砂や この浦舟に帆を上げて 月もろともに出で潮の
    波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住吉に着きにけり

 世阿弥作の能「高砂」の一節です(繰返し部は略)。
住吉は現在の住吉大社のことですが、ここでは「すみのえ」と古風に詠みます。
床飾りなどでよく目にする高砂の翁と嫗(尉と姥)の姿を思い出してください。
高砂の浦で翁は熊手、嫗は箒を手に松林を清掃しています。「お前掃くまで、わしゃくじゅう熊手(おまえ百までわしゃ九十九まで)」と偕老同穴の契りを表わしているのです。

  われは海の子白浪の さわぐいそべの松原に
    煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ            (文部省唱歌)

天橋立、三保の松原や虹の松原(唐津)など名の知れた白砂青松の名所は多くあります。
クロマツが海風によって枝をうねらせて立つ砂浜は日本の漁村の原風景といえます。
わたしが少年時代を過ごした大阪府の浜寺公園(高師浜)も、対岸さえ見なければ美しい白砂青松の海岸でした。

現在の日本の海岸線をよく見てください。
山と海が接近しているところ(東尋坊など)をのぞいて、海岸のほとんどはコンクリートの防潮堤で囲われているか、波消しブロック(テトラポッド)が放り込まれているか、いずれにせよ白砂青松の海岸などそれ自身が観光地となるほど少なくなりました。
昔はどうだったのでしょう。
クロマツが列をなして植えられていたかは不明ですが、波のうち寄せる砂浜がほとんどだったでしょう。

与謝野晶子が幼い日を憶いながら詠んだ堺大浜あたりの海岸も、寝床の枕元に「ドーン、ドーン」と繰返し波の音がきこえる砂浜でした。

残された数少ない砂浜に、近年人工的に砂を補充しているという報道を目にされたかたも多いと思います。
砂浜がやせる、とはいったいどういうことでしょう。

あなたが海辺に別荘を建てるとします。
片側は海岸に松原がひろがり、反対側には森があると考えてください。
ベランダはどちらに設置しますか?例外なく海の見えるほうにつくるはずです。
日本人は(ヒトは、といったほうが正解かもしれません)、海を眺めるのが大好きなのです。
一日黒々とした森を眺めていると、ウツになりかねません。
白砂青松が日本の海岸線から減っていくことは、わたしたちにとって幸が減っていくこと、すなわち環境が悪化していることと考えられます。

先ほどの問題に戻ると、砂浜が少なくなった分、砂は行き所をなくして余っているはずなのです。
砂は波が岸に寄せるときに連れてくるのです。引き波にさらわれてハワイまでいってしまうなどということはありえません。
なぜ砂浜はやせ細っていくのでしょうか。

まず、海辺の砂がどこから来るか考えてみましょう。
海の底の砂が波にまみれて浜に打ち上げられるのでしょうか?
そんなことはありません。
当たり前のことですが、砂浜の砂は陸地から供給されています。
日本の場合平野部分がせまいので、山から供給されるといってもかまいません。そして山から海まで運んでくるのが川なのです。

すこし専門的な話をします。
砂浜、というのですからそこにあるのは砂です。
もちろん、貝殻や珊瑚の殻などの生物由来のものも砂浜には混じっていますが、それは海でまざったもので、山から運ばれてきたのは砂のみです。
なにを無意味なことを、と思われているでしょう。
ここでは砂とはなにか、ということを問題にしたい。
粒の径が2ミリ以下の岩石砕屑(さいせつ)物を砂といいます。
大変専門的な表現です、2ミリ以上のものは礫(れき)といいます。
いくら大きくても「礫」で現します。
小石や石、岩もありそうなものですが、学問的にはすべて礫です。
「砂浜にあるのは砂」という当たり前な話は、礫を含まないということなのです。
それではその礫はどうしたのか。
川を流れるうちに大きいものから順に川底に沈殿していきます。
海にたどり着いたときに水に混ざっているのはおおむね砂だけになっているのです。
もちろん川が急流で移動距離が短い場合など、2ミリ以上の礫も流れ着くのですが、ここは原則論で通します。

2ミリ以下が砂だ、といいました。
じゃあわたしたちになじみの深い粘土も砂か?といわれそうです。
たしかに粒子がどんどん小さくなるとその物質は粘土と呼ばれます。
ただし粘土は径が256分の1ミリ以下のものです。
砂と称するものの最小径は16分の1ミリなので、16分の1ミリ以下256分の1ミリまでは「シルト」といいます。
専門的な話をもう少し。
川の水にまじって海に流れ込むのは礫以外(極小の礫は例外です)ですから、砂以下すなわちシルトと粘土も混じっています。
混じっているというより、シルトや粘土は「溶けている」といったほうがぴったりきそうです。
溶けた状態なので浜にうちあげられてもほとんどはそのまま引き上げられていきます。
大き目のシルトはとどまっているのでしょうが、私たちの目にはみえないのでわかりません。
護岸工事をおこなうとこのシルトが舞い上がってくるので、砂浜の砂にまじっていることがわかります。

春になるとわたしたちを苦しめる黄砂。
春霞や朧月夜は古くから日本の春のやわらかくあたたかい雰囲気をよく表わしていることばですが、その正体は黄砂だといわれています。

中国大陸の奥から黄土とよばれる物質をまぜて流れる黄河、流れ出た先の海洋名は黄海です。
砂はその長い航海でほとんどが河底に沈殿するでしょうから、混ざっているのはシルトや粘土でしょう。
黄砂も黄土地帯で風に舞い上がって空中をただようものですから、砂ではなくこのシルトが中心でしょう。

やっとさきほどの問題にもどります。
なぜ砂浜はやせ細っていくのでしょうか?
砂が山から供給されなくなったからです。
登山やハイキングで山肌から川にむかって土がどどどっと落ちている風景をよく見かけるということはまずありません。
それではこの「供給」とは何でしょう。
これは「山崩れ」によって供給されるのです。
海に供給できるほどそんなに頻繁に山崩れが起きているはずがない、と思うのは当然ですが、じつは日本の山奥で起こっていることなどだれにもわからないのです。
毎日パトロールしているわけではない。
時折人間の生活圏で起きた山崩れが大きく報道されるので「めったにない」と思っているだけで、基本的に山はかならず崩れていくものなのです。
自然破壊のようですが、自然の推移だと考えたほうがよい。

問題がなかなか解けません。
山崩れがすくなくなったわけでもないのに、海に砂が供給されない、どういうことなのか?

もう簡単ですね。そう、ダムが砂をせき止めてしまっているのです。

人間の生活を守るためにつくられたダム。
洪水をふせぐため(治水)や旱魃をふせぐため(利水)につくられたダム。
シルトは流れても砂はダムから下流に流れることはありません。
山をたてれば海がたたず、自然を人間すべてが気に入るようにコントロールするのはまことにむずかしいことなのです。

(「高砂や この浦舟に帆を上げて」完)