「和の変」  消えた歌謡曲 その1

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

「和の変」

 

 

じつは、日本の風景や習俗、歌謡、言葉・・・などには
「変なこと」や「変化したこと」がけっこうあります。
私たちが目にしたり聴いたりしているモノやコトのなかにある、
ふだんは気づかない「日本の変」をテーマにせまります。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   消えた歌謡曲 その1             (黒岩 直樹 記)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

昭和37年、私は小学校2年生でした。
床の間に安置された三菱の白黒テレビからは「ベン・ケーシー」や「てなもんや三度笠」が流れ、学校ではなにかあればみんなでイヤミの「シェー」をやってました。

 

和の素敵 てなもんや三度笠

 

景気は良かったのか悪かったのか、2年坊主にはわかりません。
39年開催のオリンピック期待の景気上昇などと年表は教えてくれますが、翌38年に三波春夫の「東京五輪音頭」がラジオやテレビから連日流れ出すまで、こどもたちの意識にはオリンピックなどなかったようです。
大阪府下、旧布施市内の長瀬駅南東の新興商業・住宅地が私の生まれ故郷です。
新興とはいえ、近鉄大阪線が開通し、近畿大学ができた昭和初期に開発された駅周辺の住宅地で、空襲もまぬかれてある種「古い街」の趣きがありました。迷路のような路地が縦横にめぐり、子どもたちはどこを抜ければ目的地に一番早く着くか熟知していました。
ちなみに近鉄は戦前は「大軌(だいき)」(大阪軌道)と、近大は昭和初期は日本大学グループで「ポン大」とよばれたと父がよくいっていました。
住宅地の周りにはひろびろと田んぼが展開しており、山のない平地のこどもには田んぼやため池、そしてそのあいだを流れる用水路(小川)がもっぱらの遊び場でした。
大阪平野の東を閉じる生駒山の西麓は勾配が特に大きく、急水路の流れを動力に利用した伸線産業が昔から盛んで、家の近所にも銅関連や金網工場が多く、工場横に詰まれた不良品(だったと思うのですが・・・)を調達・加工してメダカやフナをすくって遊んでいました。
ため池からタイワンドジョウを捕獲したときなんぞは数十人のこどもたちが大騒ぎして見守っていたものです(私はウロチョロしていただけですが)。
いつもの網ではとてもたりず、工場まで大きな網を取りに(盗りに?)走らされた記憶があります。
小学校にあがったころから徐々に周囲の田んぼの埋め立てが始まりました。
今なら埋め立ててすぐに家屋を建設するのですが、当時はなぜかそのまま数年放置されていました。
こどもたちはこの空き地を「ひろっぱ」とよんで、おもに野球の練習場として利用したものです。
下水用だったのでしょうか、土管がひろっぱの端に積まれており、跳躍力や平衡感覚を養成する器具としておおいに活用していました。
ジャイアンやのび太君もうろうろしていた気がします。
2年生のある日、ひろっぱに住宅を建てるための基礎工事をしているのを、ひとり眺めていました。
工事のおじさんが「ボク、これ運んでみるか」と土砂の入った一輪車(手押し車)を指さしました。
ボクはおおよろこびで日暮れまでおじさんの下で手押し車を運び続け、帰りに労賃50円也を受け取りました。
今ならいろんな法律や条令にお世話になりそうな事案です。
今回のテーマは「消えた歌謡曲」で「私の少年期」ではありません。
歌謡曲の世界などあまりに広大で、それを論じるなどというのはなんぴとにも不可能だと思います。
犬吠崎に立って大海原をみはらしたところで、それで太平洋をわかったことにはなりません。
ハワイはおろか、ミッドウェーすら見えない。
たしかに「歌謡曲は消えた」という意識はあるのですが、とっかかりすら見あたらない。
「歌謡曲とはなにか」と考えただけでも、一生かかりそうな気がします。
あまり永くない余生をそんな考察に費やしたくもない。それで老人らしくひとの迷惑なんのその、とりあえず昔ばなしから入ったわけです。
ほんとはここで「完」と書いて寝てしまいたい。

大学時代にカラオケなるものが巷にはやりだして以来、40年近くマイクを握りしめたままの私です。
おもに歌謡曲を歌うのですが、好きな曲ベスト10をあげろといわれれば(誰もいってくれませんが)、100曲以上をリストに書き出してうなりはじめます。
でも冒頭にあげた「いつでも夢を」はおそらくそのリストには入らないでしょう。
私はべつにサユリストではないし、元祖御三家の橋幸夫がとくにお気に入りでもなんでもない。
でも日本の歌謡曲といえば「上を向いて歩こう」(ⅱ)か、この「いつでも夢を」がなんとなく歌謡曲というジャンルを象徴しているような気がするので。

 

和の素敵 上を向いて歩こう

 

ほんとうに「なんとなく」ですが。でも、その「なんとなく」の正体の一部は「明日はあかるい」でしょうか。

もう一度昭和37年。

敗戦から17年。
私たち家族6人は戦前からの棟割長屋に住んでいたのですが、郊外の田んぼを埋め立てて「団地」ができました。
「テッコンキンクリートの家やねんで」と当時はこどもながらおやじギャグをとばしていました。
4階建てで8棟くらい並んでいたでしょうか。
屋上がおそらく洗濯物干し場だったのでしょう、階段から出ることができ、1棟に階段が2か所あるので、私たちの恰好の遊び場でした。
かくれんぼや鬼ごっこと、大腿筋をおおいに鍛え上げたものです。
団地妻のみなさん、バタバタとごめんなさい。
団地の中味の詳細など知りませんが、銭湯に行かなくていいというだけでもうらやましい限りでした。
でも団地族などごく一部で、同級生のすくなからぬ数が田んぼあとのぬかるみだらけの地面に建ったバラックのような家や、一間(ま)か二間しかないアパートに住んでいました。
もちろん私のような比較的ちゃんとした借家住まいもあり、家内工業で紡績工場を併設した住宅や小売商もあり、昔からの村落のなかの農家のこどももありと、大都市近郊の典型のような町でした。

33年か34年に我が家にもテレビがやってきました。

いまなら「購入した」ですが、当時は三輪ミゼットに乗って「やってきた」のです。
まだ「やってこない」近所のテレビ難民衆は総出でこのあたらしい神様を迎えました。
床の間(今風にいえば4Kにすぎない我が家には、2畳くらいの豪勢な床の間があった!)から花器や掛け軸を追い出してこのテレビが鎮座ましました。
当時の番組について語りだすとしつこくなるのでやめますが、歌番組として「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」があり、歌謡曲とは少し毛色の違ういわゆるポップスが流れていました。
歌謡曲番組は思い出せないのですが、バラエティ番組などでは「歌のお客様」が最後に出てきたし、歌手の顔を見ない日はないほど流行歌のシャワーを浴びていました。
もちろんラジオも朝からフル回転で番組を流していました。
当時テレビはゴールデンタイムしか見ません。
朝の連ドラをのぞけば、昼間のテレビは放送休止していたようです。
歌はもっぱら茶の間の水屋(食器等のものいれ)の上に置かれたラジオから吸収していたのかもしれません。

歌がヒットすれば、みんなで歌います。

兄弟とも、母ともいっしょに「うぅえをむぅいてぇ、あぁるこおぉぉ♪」とやっていました。
もちろん、学校の休み時間にも、放課後の神社の境内でも風呂屋の湯船の中でも、友だちと大声で歌っていました。
平成の今日からすればまったく異様な光景です。
人々が家や街で声をはりあげて歌を歌っている状景など今では想像もできない。
かなりアブナイ人と思われかねない。
平成日本人はカラオケボックスや結婚式の二次会以外では歌わない行儀のよい国民になりました。
ここで歌謡曲の定義その1がみつかったような気がします。
「みんなで声をあわせて歌った」「あなたが歌えばわたしも謡う曲!」。

戦争末期、日本の都市を無差別に焼き尽くそうという米軍による空襲を避けるため、こどもたちは田舎に「集団疎開」しました。

戦後、都市が復興し働き手が不足したとき、逆に中学を卒業したこどもたちが田舎から都会へ「集団就職」してきました。
集団とはいえ、三菱や住友に集団で入社したわけではない。
ひとりひとり、別々に、おもに町工場に住み込みで就職したのです。
弥生3月、青森駅で親や先生の涙に見送られて蒸気機関車牽引する夜行列車に乗ってシュッシュポッポと上野駅まで集団でやってきたので「集団就職」といったのです。

 

和の素敵 蒸気機関車

集団就職列車が走ったのは昭和29年から50年まで。
そのピークは30年から40年です。
通常は16歳になる歳に中学を卒業しますから昭和14年から24年生まれくらいが汽車に揺られて都会にでてきた世代です。
のちに述べる団塊さんたちもすべりこみで該当します。
「ああ上野駅」(ⅲ)はこの世代の「こころの歌」です。
上野駅に到着した15歳の群れの報道は、マスコミによる歳時記のようなものでした。
ちなみに45年ころには高卒者の数が中卒を上回り、さらに49年のオイルショックによる景気低迷で中卒採用にブレーキがかかり、集団就職の歴史は幕をとじます。
都会で苦労する若者たちは同じ境遇のものどうし集まっては歌をうたいます。
40年ころから東京や大阪では「うたごえ喫茶」が流行します。
そこではロシア民謡などが主流で歌謡曲はあまり歌われなかったようですが、学生のほかにこれら勤労者もこの「喫茶」に通って、友やときには伴侶をみつけたはずです。
「夕焼けとんび」(ⅳ)「別れの一本杉」(ⅴ)「リンゴ村から」(ⅵ)「僕はないちっち」(ⅶ)など、地方をなつかしむ歌は歌謡曲の重要な要素でした。
べつに戦後の集団就職にかぎらなくても、大正から昭和にかけては農村から都市に働き手がどんどん流入しており、それらの「ふるさとなつかし歌謡」には国民に共有する感情があふれていたはずです。
昭和50年以降は農村から都市への流れが止まります。農村はもはや若者の産出地ではなくなってしまった。
それまでの流出によって働き手が戸主もふくめて出て行ってしまった結果、年寄りだらけの「過疎地」となったのです。
平成のこんにち、もはや「ふるさとなつかし」と歌っても、日本にはそれを自分のことと感じる当事者が少なくなりました。
当然そんな歌ははやりませんし、だれも作りはしません。

(ⅰ) 「いつでも夢を」   詞:佐伯孝夫   曲:吉田正    
歌:吉永小百合・橋幸夫  昭和37年
(ⅱ) 「上を向いて歩こう」 詞:永六輔    曲:中村八大
歌:坂本九        昭和36年
(ⅲ) 「ああ上野駅」    詞:関口義明   曲:荒井英一
歌:井沢八郎       昭和39年
(ⅳ) 「夕焼けとんび」   詞:矢野 亮   曲:吉田矢健冶
歌:三橋美智也      昭和33年
(ⅴ) 「別れの一本杉」   詞:高野公男   曲:船村 徹
歌:春日八郎       昭和30年
(ⅵ) 「リンゴ村から」   詞:矢野 亮   曲:林 伊佐緒
歌:三橋美智也      昭和31年
(ⅶ) 「僕はないちっち」  詞・曲:浜口庫之助
歌:守屋 浩       昭和34年                   (次回 消えた歌謡曲 その2へ続く)

 



  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

Translate »