「和の変」  消えた歌謡曲 その2

「和の変」

 

 




じつは、日本の風景や習俗、歌謡、言葉・・・などには
「変なこと」や「変化したこと」がけっこうあります。
私たちが目にしたり聴いたりしているモノやコトのなかにある、
ふだんは気づかない「日本の変」をテーマにせまります。

 

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   消えた歌謡曲 その2            (黒岩 直樹 記)
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昭和41年。

歌謡曲(当時は「流行歌」といってもおなじ)の世界がこの年おおいに変貌しました。

ビートルズの曲が前年の40年から日本に上陸、41年には本物が東京に上陸して大騒ぎになりました。

それに触発されてグループサウンズ(GS)が雨後のタケノコのように誕生しました。

加山雄三もこの流れでヒットを連発させます。

騒がしい系のこれらポップスのほかに、フォークソングも同時に「和製フォーク」としてこの年お目見えします。

第一号は「バラが咲いた」(ⅷ)でした。

 

和の素敵 バラが咲いた

 

若者は余裕のあるものはエレキギターに、そうでないものはフォークギターに走ります。

このころの若者、とは17歳から19歳の少年です。

昭和22年から24年に生まれたこどもたちです。

彼らは同級生が260から270万人もいました。

のちに「団塊の世代」と呼ばれる特異な世代です。

この世代がこれ以降の高度成長期の消費をリードすることになります。

ちなみに平成25年の今日、かれらは65歳前後になっており、ぞろぞろと集団で山歩きなぞをしております。

一部はまだ現役で働いており、若年層の就業機会を損ねております。

住宅事情もどんどんよくなっていきます。

せまい賃貸からニュータウンとよばれた広いマイホームへ。

高度成長期の昭和40年代、賃金は右肩あがり、いくらローンを組んでも当時のサラリーマンはへっちゃらです。

部屋が増えればその用途はただひとつ、本邦史上初おめみえ「子供部屋」の登場です。

大学受験という錦の御旗のもと、若者は食事以外は自分の部屋に籠ります。

ギターも買いました。

ラジカセも買いました。

深夜の受験の友として「オールナイトニッポン」(関西では「ヤングリクエスト」や「ヤングタウン」)がよりそってくれます。

父や母はテレビから流れる「骨まで愛して」(ⅸ)や「小指の思い出」(ⅹ)を見ていっしょに歌いたいのですが、音量をよほど絞らないとバカ息子(娘)から≪勉強中!静かにして!!≫と怒鳴られます。

自分は勉強の合間にへたなギターをジャカジャカ鳴らしているくせに・・・。


駅前にはかならずパチンコ屋がありました。

あんな一等地になぜ、と今では不思議でならないのですが、戦後のどさくさになんらかの手段で手にいれた土地なのでしょう。

パチンコ屋といえば軍艦マーチがつきものですが、始終この軍歌がかかっていたわけではない。

大半の時間は流行歌がかかっていたものです。

40年代なかばまでパチンコ屋に出入りしなかった私がなぜこう断言できるのか。

エアコンなどまだない時代、パチンコ屋の出入り口は開けっ放しだったからです。

もうもうたるタバコの煙とともにレコードの音は街路に流れ出ていたのです。

今はパチンコ店は完全密閉状態のようです。

20年以上入ってないので、店内の音響状態についてはぞんじません。

昭和35年の安保闘争の敗北感を象徴したといわれた「アカシアの雨が止む時」(ⅺ)など、パチンコ屋の前をうろうろしていて覚えた気がします。

好き嫌いをとわず、流行歌から逃れられなかった環境といえるでしょうか。

 

和の素敵 あかしやの雨が止むとき

 

昭和43年。

学園紛争真っ盛りです。

担当していたのは当時19歳から21歳の例の世代のお兄さんお姉さん方。

テレビも朝から晩まで「さあ、明日こそ革命が起きるゾ」という番組を流しつづけていた、はずはない。

昭和43年は西紀1968年、明治百年です。

回顧気運もかさなってテレビでは「なつメロ」(*)大ブームでした。

二葉あき子にディック・ミネ、小畑実に藤山一郎と、戦前からの流行歌を支えてきた歌手がまだ多数健在で、ピンキーとキラーズや千昌夫にまじって往年のヒット曲を熱唱していました。

大半の日本国民はこのなつメロ番組に夢中になっていたものです(私がなつメロを大量に仕入れたのもこの時期)。

ただ、例の世代は「戦前・演歌」なるものに否定的な態度をとる方が多かったので、明治百年やなつメロには(本音はどうあれ)背を向けていたようです。

岡林信康の「友よ」を歌い、ちゃんと歌えなくてもビートルズが好きといってみせ、矢吹丈(**)に共感をもつというのが、大学進学率2割未満で世代内では少数派とはいえども紛争担当の大学生の一般像だったようです。

(*)「なつメロ」とはこのころはやった造語で「なつかしのメロディー」の略です。当時は昭和初期から30年ころまでの流行歌を限定した用語でした。平成初期の歌を聴いて女子高生が「わー、なつメロだぁ!」などといってるとおじさんは説教したくなります、しませんけど。
(**)コミック「あしたのジョー」(原作梶原一騎、ちばてつや画)の主人公

昭和48年、オイルショック。「昭和元禄」ということばがあります。30年代後半からの文化の大衆化をあらわしたものです。

歌謡曲の隆盛もまさにその中心にありました。

これ以降も時代としての昭和は続きますが、昭和文化は50年ころに消えてしまう。

従来ポップス歌謡などといわれてきたジャンルは「ユーミン」の出現などで「ニューミュージック」とネーミングされ、終戦以前に生まれた人を疎外してゆきます。

老いも若きも「みんなで歌う」という歌謡曲は終焉します。

「世代をこえてうたわれた」が歌謡曲の定義その2といえそうです。

もちろん、戦前からジャズやオペラ、戦後は米製ポップスなどが大流行しており、若者はそれらに夢中になっていたのですが、それでも歌謡曲を捨てはしませんでした。

40年代に若者をとらえた反権力意識が、団塊を中心に歌謡曲への反発心をうみ、離反していくことによって日本における「世代をこえてうたわれる」歌の歴史は終ったのではないでしょうか?

 

その後は一瀉千里です。ウォークマンが54年に出現し、音楽は徹底的に個人で楽しむ文化に変化しました。

インベーダーゲームがはやったのもそのころ。

こどもたちの音楽の時間はゲームに拉致されました。

ファミコンは平成にはいるとこどもそのものを拉致していきました。

両親や祖父母がいくら泣いて呼んでも、平成のこどもたちはもはや一緒にはやりうたを歌ってはくれません。


けっきょく、歌謡曲を論じることは世相の移り変わりを論じることになったようです。

出産事情も住宅事情も経済状況も政治状況もすべてかかわって歌謡曲をはやらせ、そしてすたれさせてしまった。

昭和50年以降は別の文化時代に突入した感じがします。

歴史とはそういうもので、それはなんら悪いことではない。

歌謡曲がすたれようとも、こどもや孫に「うるさい!」といわれながらも私は家でうたいつづけますし、カラオケでは歌謡曲に(できるだけ)こだわっていきます。

私の世代が死ねば昭和歌謡の担い手もいなくなるのでしょう。

歌謡曲が「歴史」に昇華して、天上で結晶するときなのです。もうあと20年というところでしょうか。

 

(ⅷ)「バラが咲いた」   詞・曲:浜口庫之助
歌:マイク真木      昭和41年
(ⅸ)「骨まで愛して」   詞:川内康範   曲:北原じゅん
歌:城卓矢        昭和41年
(ⅹ)「小指の思い出」   詞:有馬三恵子  曲:鈴木淳
歌:伊東ゆかり      昭和42年
(ⅺ)「アカシアの雨が止む時」 詞:水木かおる  曲:藤原秀行
歌:西田佐知子      昭和35年                      (「消えた歌謡曲」完)