超訳、日本的。

風呂屋の富士

 

※みちぐさ学会「風呂屋の富士山巡り 銭湯ペンキ絵を見てまわる」より

なぜ、銭湯に富士山が描かれるのか

和の素敵をはじめてから、三味線や尺八、雅楽、舞踊や殺陣を修練された方の演奏や演技を拝見し、お話もしてわかった(つもりの)ことがあります。「お茶会を百倍愉しむためのお稽古」をやって、茶道には多くの日本文化の神髄が凝縮されているんだなぁと、あらためて気づいたこともあります。日本ー京都の文化をさまざまな角度で語る方から学んだこともあります。

これらは日本文化という枠の中ですが、まったく異分野です。でも共通する事柄をいくつも発見したつもりになっています。

それを「日本的」というとあまりにもベタな表現ですが、日本を現す何かであるし、その発見には、「伝統」と呼ばれているけれども、現代日本にも見受けられるものがあると思いました。意外にも西洋的ーアメリカ的なものとも共通する何かも少し感じています。

もしそうであるなら、学術的な検証も何もないのですが、和の普及を草の根運動的におこなっている和の素敵としては、ひとこと言ってみようと、私が感じてちょこっと考えてもみたそのいくつかを連載します。

 

一回目は「見立て」についてです。

見立てというのは、対象を他のものになぞらえて表現することです。「暗喩ーメタファー」に近いでしょう。

メタファーも私たちは日常生活の中でよく使っています。たとえば「人生はドラマだ」という表現です。ちなみに比喩には暗喩ともうひとつ直喩という表現があり、直喩でこれを表現するなら「人生はドラマのようだ」となります。

「人生はドラマのようだ」と表現するよりも「人生はドラマだ」と言う方が、圧倒的にイメージは広がりますね。そう言う意味では、クリエイティブにおけるコンセプトに近いと言えるでしょう。

 

日本の「見立て」がおもしろいのは、暗喩と違って「見立てるモノのイメージと情報」を取り込んでいるということです。

 

たとえば、日本には数多くの富士山の名前を拝借した山がありますね。蝦夷富士とか近江富士とかです。これは、形が似ているということでネーミングされますが、富士に見立てることで、霊峰富士のありがたいイメージも取り込んでいます。

これが進み江戸時代になると、冨士講による富士山の模型が江戸のあちこちに作られ、そこに行きさえすれば富士山に登ったつもりになれました。この流れの中で、銭湯に富士山が描かれるようになったのです。

 

日本各地の○○銀座もそうです。実際は銀座に似ていなくても、銀座のようになりたいという思いで見立てたものですね。

映画「フラガール」の舞台、常磐ハワイアンセンターは見立てがコンセプトまでになった例でしょう。

そういえば、プロ野球のユニフォームも大リーグのチームを見立てたものですね。

 

和の素敵でおこなっている「お茶会を百倍愉しむためのお稽古」でも、7月にガラスのお道具で揃えておこなったことがあります。これも見立てですね。

 

和歌や短歌にも見立てでイメージを重層化する手法もあります。

ひとつあげるとすれば、古今和歌集の在原業平の歌、

「千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)からくれなゐに 水くくるとは」でしょうか。

雑な解釈ですがこういう意味でしょう。

「神々が住み、不思議なことが当たり前のように起こっていた、いにしえの神代でさえも、こんな不思議で美しいことは起きなかったに違いない。奈良の竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉を乗せて、鮮やかな唐紅の絞り染めになっているなんて」

この歌の見立ては、川に紅葉が流れる様子を、唐紅色に絞り染めにした、と見立てるところですね。

 

このように、日本には見立ての発想が、歴史的にもそこかしこにあります。例でみた中には「あやかる」や「もじる」に近いものもありましたが、それでも見立てることで「見立てるモノのイメージと情報を取り込み」、場や集団のイメージを増幅することに役立っていると思います。

凄いですね、見立てって。

こういう例でいけば、私の好きなたこ焼きもたい焼きも見立てでしょうか。

 

 

 

一回目は、やっぱりそうなんだとお茶のお稽古で感じた「見立て」という日本的な発想方法です。