御霊神社 大阪淡路町

 

 

御霊神社は、古来、北船場の淀屋橋から本町、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、西本町、江之子島、南北堀江の西部等の旧摂津国津村郷の産土神として、多くの氏子・崇敬者の崇敬を集めています。

浪速の氏神として、特に厄除け・縁結びの神様として格別の尊崇を受けています。

 

和の心 20141104 御霊神社1

 

創祀は、平安時代に書かれた『文徳天皇実録』の嘉祥三年(850)に八十嶋祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。

この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。

 

八十嶋祭とは、平安時代の記録に残る天皇の即位礼の大嘗祭の翌年行われた皇位継承儀礼の一つです。

難波の地は、琵琶湖から流れてくる淀川と、大和から流れてくる大和側とが運んでくる土砂によって干潟ができあがりました。

そして、その干潟に、島ができ、その島が繋がって、今日の大阪が出来上がったといいます。

当時その干潟に形成された島は、大小多くの島という意味の八十嶋とよばれていました。

百人一首の「わたの原 八十嶋かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船」という参議・小野篁の歌が有名です。

その八十嶋の地は、圓江と呼ばれ、新しく天皇が即位され大嘗祭が行われた翌年、次の天皇の新しい時代を祈願する八十嶋の祭が執り行なわれていた場所でもあります。

 

和の心 20141104 御霊神社2

 

京都から難波にくだってきた陰陽師は、圓江の海岸に祭壇を設け、豊かなお供え物をしました。

女官であるな内侍が預かってきた天皇の御衣を何度か西の海に向かって打ち振り、ケガレを祓い落として、祭りが終わるとお供え物を海に投げ入れました。

その祭壇の場所に祠を建てたのが、圓神祠であると考えられています。

圓江は禊祓する場所であり、ツミ、ケガレは川へ流しただけでは徹底しないため、都人たちは遠路わざわざ難波津までやってきて、自らの息を吹きかけてケガレを移した人形を海に流しました。

 

その場所が、御霊神社の前身である圓江神社、現在の西区靭本町一丁目にある楠永神社辺りだとされています。

御霊神社の前身が靭にあったことを記念して、境内に「うつぼの碑」が建てられました。

御霊神社は古くは圓神社、津村神社といわれた古社であり、御霊神社の南に接している西本願寺の津村別院、俗称・北御堂とともに、平安時代の圓江の名を今日に伝えたものです。

 

和の心 20141104 御霊神社3

 

時代は下り、豊臣秀吉公の大坂居城とともに政治経済の中心地として発展し、諸大名の崇敬厚く寄進も相次ぎました。

中でも後の津和野藩の祖である亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進され、圓江神社は、文禄3年(1594)に、船場の現在のこの地に移りました。

その邸地内に祭られていた源正霊神こと鎌倉権五郎景政公の霊と共に祀られることになりました。

鎌倉権五郎景政公は、平安時代末期の武将で豪快な武勇伝を残された方で、特に武家に信仰を集めていました。

鎌倉権五郎の権五郎から五郎ノ宮、そして「圓御霊」となり、江戸時代の元禄9年(1696)に御霊大明神、御霊神社と改称いたしまして、今日まで船場の御霊さんと親しまれています。

宝暦3年(1753)正一位の神階を授けられました。また、伏見宮家より神輿修復の御寄進を賜わり、幕府からも城代巡見社として崇敬を受けました。

 

和の心 20141104 御霊神社4和の心 20141104 御霊神社5

 

日本に神社は8万8千社あると言われています。

その神社一つ一つに御神徳があり由緒があるわけですね。

みなさまの氏神さまの御神徳、由緒はご存知ですか。

お参りするだけでなく、一度、調べてみたら自分の住む町の歴史もわかってもっともっと親しめるかもしれませんね。