日本のダ・ビンチ  本阿弥光悦 第二話

 

 

 本阿弥光悦は素晴らしい作陶家でもありました。

 

作陶は楽焼の2代常慶、3代道入から指導を受け、ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりで制作しました。

本職の陶芸家ではなく外野から参加している分、自由な発想で個性あふれる茶碗を生み出します。

革命的だったのは、光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたことです!

制作者が名を刻んだのは日本陶芸史上初めてのことだったそうです。

それまでは陶芸家でさえハッキリと茶碗を芸術作品とは認識していなかったのを、光悦が名前を入れたことで、茶碗を通して作者の自我を主張できるようになりました。

現在国産の焼き物で国宝に指定されているのは2つだけ。

その1つが光悦の銘『不二山』です。

雪を冠した富士のような景色からこの名が付きました。

他にも『雨雲』『雪峰』『時雨』『加賀光悦』などの傑作茶碗を後世に残しました。

 

和の心 20141111 本阿弥光悦 不二山

本阿弥光悦 「不二山」サンリツ服部美術館収蔵

 

光悦は他にも素晴らしい作品を残しています。

硯箱の表面に書かれた文字は『後撰和歌集』の源等(みなもとのひとし)の歌「東路(あづまぢ)の佐野の船橋かけてのみ 思ひ渡るを知る人のなき」“東国佐野に長い舟橋(舟と舟に架かる橋)が架かっているように、あなたをずっと想い続けているのにちっとも気づいて下さらない”。

ただし遊び心でわざと「東路乃 さ乃ゝ“ ”かけて」と、途中の「舟橋」の言葉が抜かれています。

そのかわりに舟橋そのものを箱に描いている心憎い演出です。

下地に波を描き、そこへ並んだ小舟を彫り、その上に鉛の板を橋に見立てて配置しています。

丸々と盛り上がった蓋のデザインも斬新です。

古典文学と硯箱のコラボに光悦の“キマッタ!”という満足気な顔が見えそうな逸品ですね。

 

和の心 20141111 本阿弥光悦 硯箱

本阿弥光悦  「舟橋蒔絵硯箱」 ふなばしまきえすずりばこ

 

光悦は平安朝から続く伝統文化を深く愛し、それをベースに様々な創意工夫を加えて新しく甦らせます。

従来の蒔絵(まきえ、漆を塗って金銀粉を蒔いたもの)についても、見た物をそっくりに描いて「ハイ、おしまい」ではなく、対象となった物をデザイン化して再構成したり、文字を絵の一部として装飾化して加えるなど、変幻自在にスタイルをかえました。

その斬新な造形感覚は他に比類のない独自のもので、屏風、掛軸、うちわ、本の表紙など各種生活実用品まで多岐にわたって創作の対象とします。

装飾を凝らした日用品を創ることで、光悦は美術品を観賞用ではなく、生活道具の一部として暮らしに密着させようとしました。

光悦村が美術史の中で日本のルネサンス(文芸復興)の地と呼ばれる由縁です。

そして特筆したいのは、そこに軽妙な遊び心があったこと。

この明るさがまた人々を惹きつけます。

光悦は宗達と共に琳派の創始者となり、その精神は半世紀後に尾形光琳に受け継がれていきます。

光悦が日本文化に与えた影響は計り知れないです。

享年79歳。

 

和の心 20141111 光悦寺

京都北区高峰 光悦寺



※1604年(46歳)から2年をかけ光悦の書を版下にした『方丈記』『徒然草』『伊勢物語』などが出版されました(嵯峨本と呼ばれる)。
※光悦は名器(瀬戸の茶入れ)の購入の際、相手が値引きしようとしたのを断って、あえて言い値で買い取ったといいます。芸術家として、鑑定家として、自分がその価格に見合う真に価値ある作品だと思えば、それを値切ることは作者への冒涜だと思ったのかもしれませんね。

 

【おまけ】“弘法も筆の誤り”というが光悦も間違うことがあります。冒頭の『鶴下絵』をよく見ると、宗達の絵に見とれ過ぎたのか、柿本人丸(麻呂)と書くべきところを、“柿本丸”と書いてしまいます。墨なので消すわけにもいかず、“柿本丸”の隣に申し訳なさそうに薄く“人”と付け加えられている。かわいい!