和の心 20150112 谷川さん

大阪・ミナミ唯一のお茶屋  花街文化を発信

 

ミナミに大阪唯一のお茶屋があります。

その名も、お茶屋「島之内たに川」(大阪市中央区島之内)で、いろんな情報を発信しながら、花街文化の認知度アップや普及に努めていらっしゃいます。

 

「生活の変化でお茶屋が減り、芸妓(げいこ)さんも減少しました。今、世の中も不景気で、ご接待に使う方も少なくなりました。お茶屋は敷居が高いと思われがちですが、当店では個人で寄り集まってお茶屋を純粋に楽しめます。芸妓さんを呼んで遊ばれる宴会はもちろんですが、芸妓を呼ばずに、飲むだけでも構いませんよ」(二代目の若主人、谷川恵さん)

紹介がないと入店できないとかでもなく、サラリーマンでも、個人事業主でも、予約をすればお座敷遊びを体験できるといいます。

ここで少しばかりお茶屋の歴史を紹介。

大阪にはかつて「花街」と呼ばれる歓楽街があり、代表的なものは北新地、新町、堀江、南地(なんち=現在のミナミ)の4つでした。

昭和10年頃、芸妓の数は北新地で500人、新町900人、堀江500人、南地は約2000人を抱え、日本最大の花街としてにぎわっていたといいます。

とくに、ミナミは「南地五花街」(宗右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、九郎右衛門町)としてエリアも広く、お茶屋や高級料亭、料理店、旅館など格子づくりの建物が軒を連ね、日本で最も活気があったそうです。

道頓堀川から北の島之内側は高級な街、その対岸の南岸は庶民的な社交の街と位置づけられ、中でも「宗右衛門町」は最も格式が高く、「大和屋」「富田屋」といった豪華なお茶屋が繁盛していたと言われています。

だが戦後、大阪万博の頃をピークに減少し、今では芸妓はミナミに1名、北新地に7名のみ。お茶屋の存在を知らない人も多いのではないでしょうか。

 

「島之内たに川」は昭和44年に開業。

もともと芸妓だった谷川恵美子さんが料亭を買い取り創業したもので、「昭和63年に、黒塀の木造二階建てを四階建てのビルに建て替えました。その中に数寄屋造りのお座敷を設けたんです。4部屋の個室を備えています。全盛期の頃、ミナミに5、600軒あったお茶屋も、今では1軒だけになりましたね。だから低料金にして、利用客を増やしたいと思っています」(初代の谷川恵美子さん)

二代目の恵さんが“若旦那”としてお店に入るようになったのは2002年のこと。

「お茶屋は、寺社の門前などで湯茶を提供したのが始まりです。販売するのは女性のほうがよい、飲食もできたほうがよい、さらに唄や踊りも提供しようと発展してきました。始まりが料理屋ではないため、現在でも板前は置いていません。客の好みに応じて、懐石、松花堂弁当からたこ焼き、お好み焼き、カレー、ラーメンまで、ほんとに何でも取り寄せることができます。利用に決まりはなく、食事会、マージャン、稽古場など、要望に応じてアレンジしています」(谷川恵さん)

 

そんな中、恵さんはお茶屋や芸妓についてなど花街文化を分かりやすく知ってもらおうと、2011年5月から「お茶屋サロン」を始めた。今や人気の体験型講座となっており、開催は毎月第2土曜の13時~15時。参加費は3,000円で、お茶とお菓子が付きます。

定員は先着20人(最少催行人員4人)。

 

ところで、全盛期の船場の旦那衆は、お茶屋を単なる遊びの場としてではなく、情報交換の場、社交の場としても活用していたそうだですが、その遊び方はケタはずれで、そんじょそこらの宴席とはまるでスケールが違っていました。

「お座敷に土を持ち込み、木を植えてマッタケを用意してマッタケ狩りをしたこともあったようです。畳をはがし、こんにゃくを敷き詰めて、再び畳を戻し、芸妓たちを呼んで『地震や、地震や』と騒いだり、『洋行ごっこ』と言って、お座敷で大宴会をして道頓堀川から船で送り出し、再び船で帰ってくるという、遊びもありました」

そんな豪快な遊びは今では考えられないが、当時の話を聞くだけでも興味深く、その酔狂ぶりは驚くばかり。

踊りや三味線、さらには「こんぴらふねふね」といった伝統的な芸者遊びも教えてくれるといいます。

常連客だけでなく、予約をすれば、いちげん客もOKとなっています。

気分一新、新年らしい宴会を企画してみるのもいいのでは?

(THE PAGE大阪:文責/フリーライター・北代靖典:http://osaka.thepage.jp/detail/20150111-00000006-wordleaf)

 

今年は、和の素敵でも谷川さんでお茶屋遊びを催したいですね。

いつまでもお茶さんが残りますように!