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「明け方」も「夕暮れ」も曖昧。でも、そこに美しさがあります。

 

 

曖昧って、悪い意味?

 

こんにちは。

三月の終わり、秋に渡ってきた雁やハクチョウは北へ帰っていきます。

雁は日本に渡ってくる時、海で羽を休めるために、木片を加えてやってきて、帰る時、またそれを持って帰るというウワサ。

春の浜辺に、残された木片があったら、それは、冬のあいだに死んでしまった雁のものなのだとか。

かりがね茶の「雁が音」は、雁が渡ってくるとき持ってくる木片に、形が似てることからつけられた名前。

おいしい棒茶です。

 

さて、今日は「曖昧」とは?

 

あえて「イエス」「ノー」をはっきりさせないことで無用な争いを避けることが出来る。

 

日本人は物事を曖昧にするきらいがあります。

それは、一般に西洋人が主義主張や態度をはっきりさせることを重視するのと対照的だといっていいでしょう。

その背景には、一神教の影響があるかもしれません。

たしかに日本の場合、神道のように多神教であったり、あるいはクリスマスに教会に行き、その1週間後には神社に初詣に行き、仏教にのっとって葬式をあげるといったように、他の宗教を曖昧な形で認めるという風土があります。

これは何も最近の現象ではなく、昔からある考え方のようです。

たとえば大乗仏教は釈迦が直接説いたものではないと主張して物議を醸した江戸時代の思想家、富永仲基が、著書『出定後語(しゅつじょうこうご)』の中で思想の相対性について論じています。

つまり、仏教でも儒教でも道教でもよく、別に選ぶ必要はないということです。

そのようにさまざまな宗教を認めることによってのらりくらいと曖昧な態度をとった方が、宗教対立を防ぐことができるからです。

きっと日本人は、あえて曖昧にすることで、争いを避けるように思考しているのではないでしょうか。

戦争もそうです。

基本的に日本人は戦争を好みません。

もちろん戦国時代があったり、明治から昭和にかけて世界大戦に巻き込まれたりもしましたが、長い歴史の中ではむしろそうした時期が例外的だったわけです。

戦争になるのは、相手にきっぱりとノーを突き付けるからです。

その点では、たしかに元からの要求も黒船からの要求も、見事にはぐらかしてきたのです。

ノーという勇気がなかったからですが、あれがもし即ノーと返事をしていたらどうなっていたか。

曖昧さは争いを避けるのに役立つのです。

 

 

無用な「争い」を避けるための美徳

 

この理(ことわり)は私たちの日常の争いに置き換えても当てはまるのではないでしょうか。

すぐ人とぶつかる人には、態度や言動を”のらりくらり”と曖昧にすればいいのです。

そうすることで、相手を刺激するのを防ぐことが出来ます。

もちろん世の中には、人の命を奪ったり心身を傷つけたりすることなど、絶対的に間違っていることもあります。

でも、ほとんどのことは、そこまで対立すべきことではないのです。

たいていは同じことを違う視点から訴えているだけにもかかわらず、あたかもお互いに相いれないことをいっているかのように思っているだけです。

宗教対立がまさにそうなのですが、先ほどの富永仲基も、「善をなすものはひとつの家のものである」と指摘しています。

どんな宗派も同じ善を目指しているのであって、その意味で仲間じゃないかというわけです。

西洋では曖昧な態度は好まれませんが、このように日本では曖昧さこそが美徳なのです。

日本には「あわい」という表現があります。

漢字で書くと「間」ですが、この言葉にはいくつもの意味があります。

物と物の間、人と人の関係性、色の取り合わせ等。

そしてそのいずれもが、単にふたつの物事の中間を指すのではなく、その間の曖昧な部分を指しているのです。

 

曖昧こそが美しい

 

つまり、ある色と別の色のあわといった時に、その間のグラデーションのような色を想起するのと同じです。

人と人のあわいというときにも、個人同士の関係を越えたイメージを想起するのです。

個と個が別の存在として屹立するイメージとは正反対の、まさに個と個の境界線が曖昧になったイメージです。

このあわいの関係性こそが、物事の境界を曖昧にし、争いを避けるのに役立っているように思えてなりません。

人間というのはコンピューターとは違ってなかなか割り切れない存在です。

言い換えると、至極曖昧な存在なのです。

したがって、その曖昧な存在同士が主張をぶつけあうときも、決して割り切った答えを求めてはいけません。

あわいでいいのです。いや、あわいこそが美しいのでしょう。

参考:哲学者が伝えたい人生に役立つ30の言葉 和の哲学編 著:小川仁志さん

 

 

ありがとうございます。

 

10年ほど前でしょうか「Noといえない日本人(だったかな)」の本がベストセラーになった時代がありました。

ほんの少し前ですね。

あの時、Noと言えるようにならなければと、みなさん考えたのでしょか?

 

現在の多くの争いは宗教戦争。

キリストさまもお釈迦さまも、争いなんてこの世からなくなればいいのにと思っていたのに、どうして・・・。

「Yes」か「No」、良いか悪いか。

答えが一つしかないから争いになるのですよね。

「そうか、そういう考えもあるね」って聞く耳を持つだけでも違ってくるのに。

「私が」「私が」ってもういいでしょ。

「みんなで」って「我」をなくして、まあるく、まあるく。

 

曖昧、どうしてこの漢字なのでしょうね。

「曖」も「昧」も漢字の意味では、薄暗い、はっきりしない、よく見えない、となります。

そんなに悪い意味なのでしょうか。

「曖」は「日」と「愛」、昧は「日」と「未」。

私的には、「これからの未来は明るいですよ」って語ってるようにしか思えないのですが・・・。

別の意味もありました。

「曖」は日差しが暖かい、「昧」は夜明け、明け方。

こんな時は、白川静先生に聞いてみますね。

 

「明け方」も「夕暮れ」も曖昧。

昼でも夜でもないから。

でも、この曖昧に美しさを感じませんか。

 

やっぱり日本って素敵ですね。

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

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