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女子大生8人の6日間② 「木工芸 人間国宝の村山明さん」

 

女子大生8人の6日間

他では体験できない特別文化研修 初日

「木工芸 人間国宝の村山明さん」

 

日本では古来、四季折々にさまざまな樹木が育てられています。

その恩恵を受けて、多様な木工芸の技法が生まれました。

なかでも、木を刳(く)りぬいて工芸品を作る技法を「刳物」(くりもの)といいます。

この技法を継承する第一人者が、木工芸家の村山明氏です。

 

村山氏は、人間国宝の黒田辰秋が師。

江戸期の洗練された趣味を練磨した技術で表す近代の木工芸界で、黒田辰秋は民芸運動の洗礼を受け、朝鮮の「無作為の美」に影響されて木工芸に新機軸を打ち立てました。

村山氏はそうした師の在り方を継ぎながらも、簡素でさりげない造形を生みだしました。

 

村山氏が使う材料は、ほとんどが欅(けやき)です。

欅は強度に富み、木目が美しく出ることから、古くから建築や家具用材に使われてきました。

欅の板をどう使うかは、「木の声を聴きながら、自分の中で対話を繰り返すことで答えが出てくる」と村山氏。

 

最大限に木の良さを生かす創作姿勢には、木への慈しみが感じられます。

その作品は、簡素な造形の中に優しい温もりが満ちています。

(参考:SHINISE MALLより)

 

 木の声を聞く

 

木だって切られるのは嫌、やめてっていうよね。

切って板にして声を聞いて「こんな木になりたかった、もっと生きたかった」と言われてももう無駄ですね。

よく、木の声を聴くと言われますが、私も「もうしょうがない、板になっているから」と思うのと、この木を小さく切って残すとしたら、あと何年もってくれるのかなと考えます。

パルプになったらすぐに終わってしまうね。

家の柱になったら、昔はそのまま残っていけるけど、今はほとんどが合板でできているので、板といえどもその木の持ち味がなくなっているのではないかな。

 

 

生きてきた時間より長く

 

僕がこの木を使うとしたら、木が生きていた時間より長く持てるかどうか、考えます。

欅は400年、800年と言われる。

赤ちゃんで生まれて400年で20歳ぐらい、次の400年でおじいさんになっていく。

200年ぐらいでもいいや。

その木を板にしたら200年ぐらいは生かしてあげたい、存在させたい。。

そんな気持ちで、どういう形にしょうかと、私が思っている形がそれにあうかどうかと思う気持ちをづっと持っている。

だから木としゃべろうとしています。

 

物づくりは、いろいろな命の元に成り立ってる

 

物づくりって、悪い言い方すれば自分の欲望。

自分が何をしたいか、それを常に持っています。

それを何かで反映させるようと。。

反映させることによって、自己表現しています。

 

考えてみたら、人間って傲慢のところがあります。

 

私たちは木を使い、染色の人は蚕を使う。

人間だからこそ、物づくりを当たり前と思っているけど、いろいろな命の元に成り立ってるから、私がやりましたって大切にします。

生きるって、すべて人間のためにあると思ってしまいますが、でも、ほかの多くの命があることに目がいかない。

 

昔の縄文時代は、動物さまさま、生き物すべてにありがとうという思いがあった。

アルタミアの洞窟には動物の絵があります。

これは、一つは祈り、一つはもっと欲しいよという思い。

農耕民族だったら、神さまにお祈りして、竜神さんに雨をお願いし、人間の勝手だけど、私たちのためにお願いします。。

そう、私たちのために。

 

ライオンは、絶対に雨降ってくれって祈らないでしょ。

人間は意識外、意識していないところで傲慢です。

工芸は自己表現の中で傲慢がたくさんあります。

謙虚であってほしいが、今はそうなると表現できない、そうはいかない。

 


(工房で木の説明をしていただいてます)

 

 四つのあきらめ、「和敬清寂」

 

ある本に、四つのあきらめ、「和敬清寂」とありました。

倭、やまと、和は人と人を楽しく結びつけるとされています。

 

お茶の中では和敬清寂が一番大切にされています。

南坊録という本があり、利休の話をづっと書いていて、和は、「和やかにみんな久しくやること。」

 

お茶席には亭主と主客と次客、末客がある。

利休が作った畳二畳の草庵がある。一番小さな部屋。

亭主と主客、一人づつ、そこで、色々なお話をする。

思い方、考え方の話をする。

お茶の本質はそういうこと。

数寄茶、侘茶。

それ以前は貴族茶。

40畳ぐらいでみんなでワーッとしていた。

「見せびらかしの茶」と言われて、私こんな茶碗持ってますねと見せびらかしていた。

 

お茶は自立する意識

戦国から江戸になってくると、禅宗と武士の関係がたくさんあり、禅宗がとくに流行った。

禅とは自立する、しない。

それと同時に、お茶が入ってきた。

だからお茶は自立する、自分の意識を持つことをとっても大事にしていた。

 

だから和だけど、二人で話している、和やかでなければいけない。

とげとげではいけない。

秀吉と利休はとげとげになったけど。

 


(のみの使い方のお手本)

 

けじめが大切

 

最初に和合が大切。

その次に親しくなると、けじめがなくなってくる。

けじめがなくなることを南坊はなげいていた。

 

繁盛することは寂れること、これは和の悪い使いかた。

それを止めるために何があるかというと「敬」がある。

敬、うやまうこと。

個々のけじめをきちっとつけます。

どんなに親しくなっても踏み越えてはいけない。

敬は、わきまえることが必要となってくる

 

次は静

 

濁りけがないという気持ちという事。

いいものだから大切に使うという気持ち。

お金に換算するわけではなく、おちゅわん自体の本質をちゃんみること。

素直に見るという事。

 

さみしいと書くけど、すべてのまとまりを持つという意味。

それぞれ、一文字ごとに意味がありますが、全体で和敬清寂という言葉ができる。

すべての言葉を一つにして意味があります。

 


(ちゃんと使えますか?)

 

「お茶の本質とは?」

 

「お茶の本質とは」と、利休が聞かれると

「水いれて湯沸かして、お茶碗に入れて飲むこと。まともにできる人がいれば弟子になりますよ。」

お茶を飲む本質とは、動作のこと。

お茶を飲むという事はお互いの信頼の下で、二人が無の世界、お茶を通して禅の信仰に至ること。

 

「ある」と「ない」とは

 

二元論、「有る」から「無い」がある。

気持ちの問題。意識の問題。

あると思っているけど、本当はないかもしれない。

存在しているという事は、物体としてあるかもしれないけれど、「ない」があるから「ある」があるわけ。

 

 「拭き漆」とは

 

漆の技に拭き漆というのがあります。

漆の技法の中に蒔絵とか螺鈿(らでん)、蒟醤(きんま)とかあります。

小さく分かれていくのですが、「拭き漆」は漆の技法にはいってない。

技法はあったとしても漆塗りの技法にはいっていない。

李王朝の時に、松の木の米櫃見たいのに拭き漆を塗って麻布みたいなぼろ切れで拭きとった跡が残っているのが吹き漆の原点とされています。

日本もずっと後に拭き漆の技術を用いて、木をカバーしていました。

水から腐らさないために中の穀物などを腐らさないために塗っていたのですね。

 


(みんなが体験させていただきました。のみを持つのはいつ以来でしょうね。ん、始めて?)

 

ありがとうございます。

 

『気に入る』ということは、人の気持ちの中でどのように生きていくかということ。

創り手はそれを見越さないといけない。

一年経ったら、「こんなのいらない。持ちたくない」ってものを作ってはいけない。

100年ぐらい、その人に持ってもらいたい、そういうつもりでものを作っていかないと。

これが、人間の傲慢から生まれる作品に対する、自然への恩返しかもしれませんね。

村山さんの工房にお伺いして、いつも感じることは、大切にされている木の板たちの木目と節目。

木が生きていた証拠。(切られても生きてるかも)

決して等間隔に目があるわけではなく、その環境のしるしがそこには刻まれているわけです。

私たちよりづーっと長生きしてきた木々を人間の都合で伐採して、何らかの物になっていきます。

お米と一緒。

一粒、いや一枝でも大切に価値あるものに作られる村山さん。

自然も、相手の方のことも考える村山さんだから、作品には息吹が吹き込まれ、大切にする思いが宿るのですね。

この度の最初にお伺いしたこともあり、8人はとっても緊張してましたが、和やかなお話と、工房を見せていただくことで、緊張もほぐれ、多くの大切なことを学ばしていただきました。

村山さん、本当にありがとうございました。

 

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