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昨日は浄住寺でお茶摘み 

 

浄住寺でお茶摘み

 

こんにちは。

みなさまは、お家でお茶は飲まれますか?

ペットボトルではないですよ、急須にお茶葉いれてお湯を注いでですよ。

今ではお茶にとって代わってコーヒーの時代でしょうか。

ついこの前まで、どのご家庭でも急須に湯飲みはテーブルの上に必ずあったのに・・・残念。

 

昨日は、浄住寺でお茶摘みをしました。

今日は、そのお茶についてのお勉強を少し。

 


(お茶の葉を蒸して柔らかくします)

 

お茶はいつからあるの?

 

お茶は、日本が遣隋使・遣唐使を留学させて、中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしたときにもたらされたといわれています。

平安初期(815年)の「日本後記」に、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の帝釈天において茶を煎じ奉った」と記されています。

これが、わが国の日本茶の最初の記述といわれています。

お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級の人など限られた人たちだけが喫していました。

このころのお茶の製法は、「茶経」にある餅茶(へいちゃ)であったようです。

(餅茶とは、蒸した茶葉を臼でつき乾燥させ,固められたもの)

 


(みんなで仲よく、筵の上で水けをとります)

 

栄西と明恵上人

 

臨済宗の開祖である栄西は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院でお茶が盛んに飲まれているのを見聞きしました。

帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を書き、お茶の効能を説きました。

1214年、栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬として茶を出し「喫茶養生記」をっ献上したと「吾妻鏡」に書かれています。

華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。

ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」として他のお茶と区別しました。

南北朝時代の書物とされる、虎関師錬(こかんしれん)が著した『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』に、仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺などがそれに次ぐ」とあります。

(参考:綾鷹、お茶の歴史)

 


(炭火の上で1時間ぐらいかけてしっかりと水けをおります)

 

ありがとうございます。

 

ちょっとだけお茶の歴史を書きましたが、葉室山浄住寺と関係の深いこと。

きっと最初にお茶を喫した天皇は、嵯峨天皇。

浄住寺は嵯峨天皇の勅願寺。

1200年頃には葉室の地もお茶の産地とされています。

葉室の地には浄住寺以外にお茶の木、畑は見られませんが、境内のお茶の木たちは、きっとそのころ(1200年頃)のお茶が今も息づいている!なんて想像すると楽しくてしょうがないですね。

そんなお茶の新葉、一葉双葉を昨年に続き籠を持って摘みました。

摘んだら、1分ぐらいさっと蒸します。

柔かくなって水けを含んだ新葉を今度はむしろに広げて叩いたりして水分を取ります。

そして、おおかたの水分を取りますと、最後にちゃんと水分を取ってお茶葉として仕上げるために、六角火鉢に炭をおこし、ざるに和紙を貼り、その上で茶葉の水分を最後までとります。

1時間ぐらいでしょうか、何人かの人が変わりばんこにお茶葉を転がし転がし、水分をとります。

本当に多くの人の手を経て、やっと新茶が出来上がります。

お茶葉一つも無駄にできませんね。

 


(今年も大変お世話になった優しいおじさまたちです。本当にありがとうございました)

 

自然のお茶葉は、3回4回とお茶をつぐことができます。

味?

「喫茶養生記」にもありますように、もともとはお茶として喫していた飲み物。

浄住寺の葉室茶は、まさに薬!

今市販されているお茶葉のように、味が調えられたわけではなく自然そのものの苦みを含んだ、とっても美味しい味。

浄住寺でぜひ一服を!

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

急須でお茶を飲むご家庭が増えますように!

 

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