1. HOME
  2. 和のすてき
  3. 和の徒然
  4. 「神習ふ生活」 神様は全部お見通し

「神習ふ生活」 神様は全部お見通し

 

神習ふ生活

こんにちは。

日本晴れという言葉があります。

澄みきった青空の、一点の雲をもとどめない状態を言うのでありますが、そのことばの中には、日本人のあこがれがあるのでしょう。

しかも、それは、遠い理想・空想の世界に対する単なるあこがれとは、異なっています。

それが本来の日本の心なのだという、自信とか誇りとかいったものに近い日本人の思いが、そこに強く感じられはしませんか。

さて、今日は元皇学館大學学長の谷省吾先生の「神を祭る」というご本の中から、「神習う生活」を一緒にお読みください。

 

神様は全部お見通し

 

皆さん、朝起きられて学校に出られるまでに一体、どうされますか。

それを一偏よく考へてみて下さい。

私もまた考へてみませう。

神様は全部お見通しであります。

神に恥ぢない生活を送りたいと思ひます。

 

江戸時代の心学者―――江戸時代の庶民教育に非常に大きな貢献をした人達であります。

町の人などを集めましてね。

そして講義をされた。

その心学者の代表的な人に手島堵安(てじまとあん)といふ人があります。

その方の書かれたものを見ますと、次のやうなことが書いてあります。

それは、わかりきつたことのやうですけれども、結局、それが一番根本です。

神道の事を、いろいろと偉さうに論じたところで、そのことができなかつたら、何を空しいことだらう。

さういふことです。

 

 

一つ読んで見せませう。

 

---------------------------------------------
朝おひなり候はゞ、手水(てうず)をおつかひなされ候て、まづ神様をお拝みなさるべし。

これ此の日本は、神さまの御国(おんくに)なれば、神さまのおかげにて、みなみな御飯(おめし)をたべ、

衣服(きりもの)を着申すことも、これみな神様のおかげなれば、一ばんに神様へおじぎをなされて候て、

御礼申しあげなされ候が第一にて候。〔『前訓』〕
---------------------------------------------

朝、起きになりましたら、手水を使って顔を洗ひ、口をすゝぎ、第一に神様を拝みなさい。

この日本の国は、神様の御国であつて、御飯を頂戴するのも、着物を着るのも、みな神様のおかげなのですから、先づ第一に神様を拝み神様に御挨拶をなさるということ、それが何よりも大切なことなのです。

―――さういふ意味、それだけのことですが、これがもう一番大事なことですね。

これができなかつたら、神道の事を論じたところでしかたがない、と思ひます。

 

神様というものは見えないもの

 

神様といふものは、これは目に見えないものです。

神様を見せてくれと言つて、そんなものは見せるわけにはゆかない。

世の中には目に見えないものは信じない人があります。

神様か、もしそんなものがあるなら見せてくれ、見せたら信じよう、と言ふ人があります。

しかし、人間の目というものは、そんなに絶対的な力を持つてゐるものでは決してありません。

人間の目に入るものといふものは、わづかなものです。

神様は、目に見えないけれども、しかし、神様のお陰をことごとに受けて、私どもは生きてゐるのであります。

支那の古いことばにも、君子といふものは「その睹(み)ざるところを戒慎(かいしん)し、その聴かざるところに恐懼(きょうく)す」といふことがあります。

目に見えないところに慎(つつし)みをかけ、耳に聞こえないところに懼(おそ)れる。

はじめにあげました橘曙覧先生にありますやうに、「吹く風の目にこそ見えね神々は、この天地(あめつち)にかむづまります」

私どもは、常住つゝしみの気持ちをもつて神様を仰ぎ、立派な生活、嘘のない生活をしたいものであります。

殊に天照大神の御光(みひかり)といふものは、われわれの上に、満ち満ちてゐる。

そのことを私どもは先祖から教へていたゞいた。

そしてその教を敬虔(けいけん)に仰ぎ、つゝしみ深くそれを習つてゆかう。

それが皇學館の精神であらうと思ひます。

 

 

神習(かんなら)ふ友

 

佐久良東雄(さくらあづまお)先生といへば、やはり幕末の方で、幕府に捕へられて獄中で亡くなられた方でありますが、歌人としても橘曙覧先生と同様に、幕末の最もすぐれた歌人でもあります。

その佐久良先生の歌、「友といへば茶のみ酒のむ友はあれど 神習(かんなら)ふ友ぞまことわが友」

神習ふと言ひますのはね、神様を仰ぎ、嘘のない清浄の、清らかな神様の御心(みこころ)に習つて生きる、といふことでありませう。

われわれは神習ふ友達である。

その神習ふ友達、その交り、それこそがほんたうの喜びであり、楽しみであります。

皆さんがた、ここに集まられた方、すべて神習ふ友である。

神習ふ友であつて、真の交りがそこにある。

真の交りの喜びがある。

また楽しみがあると思ふのであります。

参考:神を祭る 著:谷省吾さん(元皇学館だ大學楽長学長)

ありがとうございます。

いつ頃までなのでしょうか、このような、神国、日本人の神への崇敬なる思いを教えていたのは。

家でも祖母が当たり前のように、朝顔を洗い清めてから神棚の前で手を合わせる。

仏壇の前でもご先祖さまに手を合わせる姿を見て、同じように行う子どもたち。

理屈ではなく、当たり前。

目に見えなくても、いつも見られている神さま。

当たり前ではなくなってしまいましたね。

「神習う友」、素晴らしい友です。

素晴らしい方はたくさんいらっしゃいますが、皆さん「私が」が強いのでは。

かくいう私もまだまだ「私」の人間です。

「ありがとう」「いいよ」って、いつも笑顔いっぱいでいたいですね。

この時代、とってもあくせくしている時間の過ごし方ばかり、もう少し生きてる、生かされていることを楽しむゆったりとした時間を持ちたいものです。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

神習う友と、語るのではなく、感じながら時を過ごしたいですね。

 

関連記事

最近の記事

アーカイブ