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座禅とは2 ひたすら瓦を磨く

 

禅の話

こんにちは。

千利休は、茶道の開祖でしたが、1591年に秀吉の命令で切腹しました。

ちょうど、腹を切る前に、利休は辞世の句でこういいました。

「この剣を持つとき、ブッタも祖師もいない」。

その意味は、大いなる心の剣があるときには、そこには二元的な世界はない、ということです。

たった一つ、存在しているのは、この精神です。

このような、外側のものに動揺しない精神が、つねに茶の湯には現前しています。

利休は、一瞬一瞬に死ぬ用意がありました。

茶の湯の儀式のたびに彼は死に、そして、そのたびに生まれ変わるのです。

これが茶の湯の精神です。

禅を修行して茶の湯を作った利休。

その禅とは何でしょうか。

先日に引き継き、今日も禅を少しでも感じてみましょう。

 

本当の座禅とはなんでしょう

 

それはあなたがあなたになったときです!

あなたがあなたとなったとき、なにをしていようとも、それは座禅です。

ベッドで寝ているときも、あなたは、ほとんどの時間、あなたではないかもしれません。

禅堂で座っているときにも、本当の意味で、あなたはあなたでしょうか。

 

 

自分で自分を呼ぶ

 

ここに、別の有名な公案があります。

瑞厳(ずいがん)禅師は、いつも自分に向かって「瑞厳?」と呼びました。

そして自分で「はい!」と答えるのです。

「瑞厳?」「はい!」。

瑞厳禅師は、小さな禅堂で、一人で暮らしていました。

もちろん彼は自分が誰か知っています。

しかし、ときには迷うこともあります。

そこで、迷ったときには「瑞厳?」と自分で自分を呼び、「はい!」と答えるのです。

私たちがカエルのようであれば、私たちは、いつも自分でいることが出来ます。

しかし、カエルも迷うことがあるでしょう。

そのときは、しかめっつらをします。

食べ物がやってくると、パクっと口を開けて食べてしまいます。

私は、カエルは、いつも瑞厳禅師と同じように自分を呼んでいると思うのです。

あなた方もそうすべきでしょう。

 

自分を失う

 

座禅のときも、自分を失うことがあります。

眠くなったり、雑念などが浮かんできて心がさまよいはじめたら、迷ってしまっていることになります。

足がしびれてしまったようなとき、「どうして、私の足はしびれてしまうのか」などと答えます。

このとき自分を失うのです。

迷うがゆえに、あなたの問題が、あなたにとって問題となってしまうのです。

自分を失わなければ、いろいろな困難はあっても、問題は一切ありません。

問題の真ん中で座ります。

あなたが問題の一部であるとき、あるいは問題があなたの一部であるとき、そこに問題はありません。

あなたが問題そのものだからです。

問題とは、あなた自身です。

もし、そうであれば、そこに問題はありません。

 

 

妄想には果てしがありません

 

あなたの人生が、あなた自身の周囲の一部であるとき、いい換えれば、あなたが、今、ここで自己自身に呼び戻されるとき、そこに問題はありません。

あなたとは離れて、なにかがあるという妄想の中にさまよいはじめるとき、そのとき、あなたの周囲もまた深い霧の覆うような幻想なのです。

妄想の中にあるとき、妄想には果てしがありません。

あなたは、いろいろな妄想の考えに次々に取り憑かれます。

ほとんどの人は、妄想の中に生きています。

そして問題を解決しようとして、問題の中に巻き込まれるのです。

しかし、生きるということは、問題の中で生きることです。

問題を解くには、問題の一部になること、問題と一つになることです。

 

いつも修行

 

そこであなたは荷車を打ちますか、それとも馬を打ちますか?

あなた自身を打ちますか、それとも問題を打ちますか?

どちらを打つべきか考えているときには、すでに迷っているのです。

しかし実際に馬に鞭を当てれば、荷車は動きます。

実際は、荷車も馬も間違いではありません。

あなたがあなたであるとき、馬を打つか、荷車を打つか、という問題はありません。

あなたがあなたであるとき、座禅は、座禅となるのです。

あなたが座禅をするとき、あなたの問題は座禅の修行です。

そしてほかのすべても座禅をしています。

あなたが座禅を修行しているときは、あなたの伴侶がベッドで寝ていようが、やはり座禅を行っているのです。

しかしあなたが、本当の座禅をしていないときには、ここにはあなたがいて、あちらには伴侶がおり、それぞれ互いに違っており、互いに離れているのです。

真の修行をしていれば、なにもかもが同時に私たちの道の修行をしているのです。

 

夜と夜明けには、隙間はありません

 

いつも、医者が自分で脈を診るようにして、自分を呼ぶべきなのです。

これはとても大切です。

こうした修行は、一瞬一瞬、止むことなく続きます。

私たちは、「夜に夜明けが来る」といいます。

夜と夜明けには、隙間はありません。

夏が過ぎる前に、すでに秋が来ています。

私たちは、人生をこのようにして理解すべきです。

また問題も、このように解決すべきなのです。

実際、問題に対処するには、一途に取り組めばそれで十分なのです。

ひたすら瓦を磨くのです。

それが、修行です。

 

 

ひたすら瓦を磨く

 

私たちの修行の目的は瓦を宝石にすることではありません。

ただ、ひたすら座り続けること、それが真の意味の修行です。

仏心が得られるかどうかは、問題ではありません。

瓦を宝石にできるかどうかは問題ではないのです。

こうした理解でこの世界を生きること、それがもっとも大切なポイントです。

それが、修行です。

そして、それが真の座禅です。

ですので、私たちは、「食べるときには、食べる」というのです。

心が別のところに行っていると、食べていて、食べていません。

味もなにも感じていません。

食べるとき、食べることができれば、あなたはOKです。

なにも心配ありません。

それは、あなたがあなたであることを意味しているからです。

 

すべてをあるがままに

 

あなたがあなたであるとき、すべてをあるがままに見ます。

そして周囲と一つになるのです。

そこに真の自己があります。

それが真の修行です。

あなたは、カエルの修行を行っています。

彼は、私たちの修行のよい手本なのです。カエルがカエルになるとき、すなわち禅が禅になるのです。

カエルを徹底的に理解すると、悟りが得られます。

あなたはブッダです。そのとき、あなたはほかの人にとっても、善なる存在なのです。

夫であれ、妻であれ、息子であれ、娘であれ。これが座禅なのです。

参考:禅マインド ビギナーズ・マインド 著:鈴木俊隆

 

 

ありがとうございます。

禅には、教祖もいないし、聖典もありません。

(達磨さんは、インドからお釈迦さまの教えを伝えた人であって、始めた人ではないのですね。)

神道にも、教祖(あえて言うなら天照大神?)もいないし、教えもありません。

どちらも、説いていることは「人はもともと仏である」「人の心の中に神がいる」。

そう、人は仏でもあり、神であると言っていると思います。

だから、人は己の我を欲するのではなく、あるがままに生きていくことが大切と言っているのではないでしょうか。

生きるって書くと簡単ですが、とっても難しいですね。

だから一生、修行なのでしょう。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

煩悩を捨てきれない人生、捨てられないのが人間と自覚して、楽しく生きていきませんか。

 

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