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「あそび」は神事 天宇受売が舞って歌ったことこそ神事

 

「色なき風」

こんにちは。

「暑さ寒さも彼岸まで」というように、この頃になると暑さもあまり感じなくなりますね。
春の彼岸は単に「彼岸」といいますが、秋のそれは「秋彼岸」「後の彼岸」といって区別をします。

「色なき風」をご存知ですか。
陰陽五行説では冬は黒、春は青、夏は赤、そして秋は白とされます。
秋のことを白秋、素秋(そしゅう)といいますが、「素」は白の意味で透明感に通じます。
そこで秋風を白風、素風と呼び、それを大和言葉に置き換えて「色なく風」となりました。

子どもの頃はそんな「色なき風」の中を近所の仲間と遅くまで遊んだものですね。
(最近は子供たちの遊び声が聞こえてこないのが寂しいですね)
そんな「遊び」の始まりは神事であったとか。
とっても興味のある話し。
関裕二さんのご本「わらべ歌に隠された 古代史の闇」にこのように書かれていました。

 

 

「あそび」は天宇受売命から

「あそび」の原義を知る上でよく引き合いに出されるのが、天の岩屋戸神話です。

スサノオの狼藉に困惑した太陽神・天照大神が天の岩屋にこもり、世界が真っ暗になってしまったために、神々は相談のうえ、天宇受売命(あめのうずめのみこと)に秘策を授けました。
「古事記」には、その様子が次のように書いてあります。

天宇受売命、天の香山の天の日影(ひかげ)を手次(たすき)に繁(か)けて、天の真拆(まさき)を蘰(かづら)と為(し)て、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の岩屋戸に汗気伏(うけふ)せて踏み登杼呂許志(とどろこし)、神懸(かむかか)り為(し)て、胸乳(むなち)を掛き出(い)で裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。爾(じ)に高天の原動(とよ)みて、八百万の神共に咲く(わら)ひき

これによれば、天宇受売命は、数々の祭りの小道具を用意して、空の筒を伏せてそのうえで踏みとどろかせ、神がかりとなって胸もあらわに、裳のひもをホトにおし垂らしたあられもない姿でありました。
このとき、高天の原の八百万の神々はおかしくてたまらず、笑いころげたといいます。

この騒ぎを聞きつけた天照大神は怪しみ、天の岩屋戸を少し開いて、外の神々に問いかけました。

「吾が隠り坐(ま)すに因(よ)りて、天の原自(おのずか)ら闇(くら)く、亦(また)葦原中国(あしはらのなかつくに)も皆闇けむと以為(おも)ふを、何由以(なにのゆゑにか)、天宇受売命は楽(あそび)を為(し)、亦八百万の神も諸(もろもろ)咲(わら)へる」とのりたまひき。
爾に天宇受売命白言(まを)ししく、「汝命(いましみこと)に益して貴き神坐(いま)す。故(かれ)、歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽(あそ)ぶぞ」と、あをしき

天照大神は、自分が隠れてしまっているのだから、世の中は、真っ暗であるはずなのに、なぜ天宇受売は「楽(あそび)」をし、また八百万の神も笑っているのか、と問い質しているのでした。
これに対して天宇受売は、
「あなたよりも貴い神がいらっしゃいます。それで、みなで喜び、笑い、楽しんでいるのです」
といい、他の神々が鏡を持ち出し、天照大神の姿を映し出したので、天照大神はいよいよ怪しいと思い、岩屋戸から少し身を乗り出したところ、隠れていた天手力男(あまのたぢからお)が手を取って引きずり出しました。

 

「あそび」の根元が歌舞音曲

これが天の岩屋戸の神話のあらましです。
さて、天の岩屋戸に隠れてしまった天照大神を誘い出すために天宇受売が行った神事を指して、「古事記」は「楽」としています。
これは、「あそび」の根元が歌舞音曲であったこと、しかも、この舞って歌うことこそ神事であり、神あそびだったからです。
神の妻で神あそびをする役目の巫女が、後世遊女(遊び女)になっていくのも同様の理由からで、このあたりの事情を、大和岩雄氏は「遊女と天皇」の中で、次のように述べています。

「古事記」が天宇受売が女陰を出した舞踊を「あそび」と書くように、「あそび」は舞踊だけでなく、性に深くかかわっている。ウズメは歌女・舞女であると共に遊女なのである。

その通りでありましょう。
さらに、今日にいう「あそび」も、やはり神事とつながりがないわけではありません。

「あそび」について、「広辞苑」をひいてみると、
①あそぶこと。なぐさみ。遊戯。
②猟や音楽のなぐさみ。
③遊興。特に、酒色や賭博をいう。
④あそびめ。うかれめ。遊女。
⑤仕事や勉強の合間。
等々、現代的なあそびの解釈と神事とはあまり関係が密ではなく、イメージとしては、むしろ怠情な音の響きがあります。

でも、その一方であそびを、日常から精神を解き放す、非日常に置くものと考えることもできます。
実は、この非日常こそ、あそびと神事の関係を深く結びつけています。

現代人にとっての日常は「労働」で非日常は「休み」であるが、古代人にとって、日常は「労働(ケ)」であっても、非日常は「休み」ではなく「あそび」であり、「ハレ」の行為として神事を意味しているのです。そして。歌舞音曲を中心とする「あそび」は、芸能を生み出し、一方で儀礼へと分化していきました。
能楽が多くの場合、神事と結びついているのは、このためです。

(文:本「わらべ歌に隠された 古代史の闇」著:関裕二さん)

 

 

ありがとうございます。

こどもの頃、いっぱい遊びました、楽しかったですね。
良き時代でした。

遊びの代表といえば「鬼ごっこ」ではないですか。
鬼とは、妖怪、死者の霊魂、亡霊などの意味を持っています。
また、鬼は太古「モノ」と読み、「神」と同意語でもありました。
鬼ごっことは神の真似をすることが原義ととることもできます。
子どもには不思議な力が秘められていると考えられていて、神に近い存在とみなされていたから、多くの重要な神事にも、童子・童女は主役級の大役を任されてきました。
その、子どもが行ってきた神事・祭りが遊びとなって今日に伝わった疑いが強いのです。

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
遊びは神事、昔からあることは何事も神事と結びついているのでしょうね。

 

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