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日本最古の茶園 栂尾「高山寺」 茶園に栄西禅師と明恵上人の息吹が

 

 

 

 

 

高山寺で一服 茶の歴史を知る

こんにちは。

連休の中、やっと訪れることができました、高山寺。
先日の台風の影響で倒木がたくさん、石水院のみの拝観しかできなかったことは残念ですが、一時をお茶とともに素敵な時間をすごしました。

少しでも早く倒木が片づけられ、秋の紅葉が映えますように。
実際には職人さんがまだまだ天災による現場が多く高山寺に手が回らないのが現実です。

 

明恵上人と栄西禅師と茶園

華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、臨済宗の開祖の栄西禅師(ようさい/えいさい、1141-1215)が宋から持ち帰った(1191年)茶の実を送られ、寺の対岸の山内で栽培しました。
このお茶が修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたといいます。
日本最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にありました。
また、茶種を入れて栄西から届けられたという漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)が、高山寺に伝えられています。
現在の茶園は、かつての中心的僧房「十無尽院(じゅうむじんいん)」があった場所と考えられてます。

中世以来、栂尾の茶を「本茶」、それ以外は「非茶」と呼ばれ、宇治茶は栂尾の苗木を移植して栽培されたと伝わります。
南北朝の書物とされる虎関師錬(こかんしれん)が著した『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』には、「我が国の茶は京都の栂尾を第一とし、仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺などがそれに次ぐ」とあります。
当時、茶はすでに畿内だけでなく関東などでも栽培されていましたが、「天下一の茶」ともてはやされていたのは栂尾のお茶でした。

そうなんです、「葉室」の茶は異制庭訓往来に記されている、今も残る貴重な茶の生産地だったのです。
境内の北西地に私が「茶の母」名づける、高さ2m以上の茶の木もあります。
お近くにお越しのさいはご覧くださいね。

 

高山寺略記

京都の西郊に位置する高尾・槙尾・栂尾は三尾(さんび)と呼ばれ、古来より紅葉の名勝としてまた四季折々の美しさを育む地として知られてきました。
高山寺はその栂尾にある古刹です。
創建は、寺伝によると奈良時代末の宝亀五年(774)に光仁天皇の勅願によって開かれ「神願寺都賀尾坊」と称したと伝わります。
「高山寺」の寺号は、鎌倉時代はじめ建永願念(1206)に明恵上人が後鳥羽上皇よりこの地を与えられ「日出先照高山寺(ひいでてまずこうさんをてらすのてら)」の勅願を賜ったときからです。
高山寺中興開祖である明恵上人は、華厳宗興隆を実践し、その徳行は皇族・公卿・武士など多くの人びとの信仰を集めました。
そして「鳥獣人物戯画絵巻」に代表される数多くの文化財が高山寺に集積されていったのです。
平成六年(1994)には「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されました。

 

最初に茶の種を蒔いたのは誰?

日本に喫茶の風習が伝えられたのは、平安初期の入唐僧たちのよってです。
平安の昔、最澄(伝教大師)が延暦二四年(805年)中国浙江省天台山から持ち帰った一握りの茶種。
比叡山の麓、大津の里に蒔かれ育ったのが日本茶の祖といわれています。
歴史上に残る確かな記録としては、平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後記」には「弘仁6年(815)4月15日唐崎行幸の途中、嵯峨天皇が梵釈寺(大津市滋賀里)を過ぎたところで、永忠(えいちゅう)から茶のもてなしを受けた」と記述されています。
「日本後紀」に見えるこの記事は日本最初の喫茶資料というべきものです。
この出来事は最澄上人がここ日吉茶園にお茶を植えてから、10年後だったそうです。
当時の唐風文化にあこがれる知識層の間に喫茶が流行したことは、「凌雲集」以下の漢詩文章でうかがうことができます。
そしてこの年から近江・丹波・播磨などの諸国に茶を植えさせ、毎年これを献上させたといいます。

栄西禅師は栂尾の高山寺の前に佐賀県脊振村にある霊仙寺(りょうせんじ)内石上坊の庭に、日本で始めて蒔いたとされています。
宋で修行を終えた栄西は、多くの経典と一緒に薬草として茶を育てようと、種を持ち帰り育てる場所を探しました。
佐賀県と福岡県の県境に連なる脊振山には、中国の山並みを思わせる眺望の素晴らしさがあり、茶と同じツバキ科の仲間で、国の天然記念物に指定された「千石山サザンカ自生北限地帯」であることも、宋から持ち帰った大切な茶種を蒔くのにふさわしい場所として選んだ理由と思われます。

 

ありがとうございます。

800年頃のお茶はいうまでもなく非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。
このころの茶の製法は、「茶経」にある餅茶であったようです。
「喫茶養生記」は、製茶法についても記述がありますが、これは宋代に作られていた蒸し製の散茶であり、碾茶の原型とも言えます。
これを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようです。

お茶の歴史を探っていくととても楽しいです。
800年頃の貴族はどのような器で飲んでいたのでしょうな。
作法はあったのでしょうか?
華と香はこのころから作法があったそうですが、お茶では聞かないです。
どうしてなのでしょうか。
まだまだ調べることがたくさん。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございまいた。
高山寺のお茶のお話しからいろいろ書きましたが、一番気になるのは台風による被害、一日も早く今までのように多くの方に楽しんでいもらえるお寺に戻りますように。

 

参考
栂尾 高山寺
お茶百科 日本でのお茶の歴史
コトバンク「梵釈寺」
誠盛堂本舗 日吉茶園 日本最古の茶園
JAさが 栄西茶

 

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