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「いき」とは「日本数寄」である

 

「「日本人」とは何者か?」(NHK出版)という本の中で、九鬼周造の「「いき」の構造」という本について松岡正剛さんのおはなしよりです。

 

ところで、私は九鬼の「いき」は、日本の和歌や調度や芸能が追い求めてきた「数寄」の感覚に含まれていると見ています。

そこでここからは、「いき」と関連させながら数寄の日本学について、ごく簡単にふれておきたいと思います。

もともと「すき」「すく」という言葉はいろいろな漢字をあてることができます。

平安王朝では「好き」「好く」が近く、「好み」と同じ意味で使われました。

何かが好きになってしまうこと、それが数寄の始まりだったのです。

続いて「すく」には「剝く(薄く削り取る)」「梳く(髪をとかす)」「漉く(物を通して中や向こうが見える)」「鋤く(土を耕す)」などが加わっていきます。

すべて「通していく」「透かしていく」ということで、そこからのちに「数寄屋づくり」という言葉も生まれました。

数寄屋は格子やのれんや簾やさまざまな間仕切り調度で、景色や風情を透いていくものなのです。

珠光の侘び茶や芭蕉の「さび」もそういうものでした。

好みをどんどん漉(梳・鋤)いていくことで大なるものが小なるものに転移します。

かたまりがだんだん縞になっていきます。

そして自分の好きなところまで、どんどん漉(梳・鋤)いていって、「これでいい」と思うところでやめる。

その「これでいい」と思うところに立ちのぼるのが芭蕉の「さび」や「ほそみ」であり、九鬼の「いき」だったのではないかと私は考えます。

そうやて好きに漉(梳・鋤)かれたものの美しさや価値を理解できる者、その美にこだわりをもって生きている者は「数寄者」とも呼ばれました。

---中略---

昭和十年(1935)に書かれた「秋の味覚」という随筆では、「松茸の季節は来たかと思うと過ぎてしまう。その崩落性がまた良いのである」と言って、人間の人間性は有限でないものを享楽することに耐えられないとして、人間もまた、ただ生まれ出でて死んでいくものであるし、「生まれたかと思うと死んで行く崩落性暫有性に人生の一切の価値がかかっている」と述べています。

「永久に死ぬことなく生きているとしたら、どんなに飽き飽きしてしまうであろう」とも言う九鬼は、限りある人生をむやみに広げて貪(むさぶ)ろうという精神性の持ち主ではなかったのです。

最小限の物で済ませる。

できるだけ少なくして、残していったもので成立するのが「粋な数寄」だったのです。

現代の日本人は、お金を儲けても満足を得られずにいる人が多いようです。

グローバリズムの時代、世界に手を広げるだけ広げたけれども、自分心の拠り所はみつけることができず、寂しくてたまらない人たち・・・。

これでは「いき」はやってこない。

いったん、見方を大胆に変えてみることが必要です。

私はそれが「日本数寄」につながることであってほしいと思います。

いま私たちに求められているのは、おそらく「日本数寄」からさまざまな独創的な「いき」を立ちのぼらせることだと思います。

 

日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱する松岡さん。

久しぶりに学ばしてもらいました。

和の素敵を始めたとき最初に読みあさったのが松岡さんの本。

今、改めて松岡さんの本を読み返したい気分になりました。

きっと前回と違う感覚で読めるのではと思います。

 

さて、「粋な数寄」、なんて「いき」な言葉ではないでしょうか。

今の世にとても大切なことと思います。(理解は人ぞれぞれ違うかもしれませんが)

粋な数寄人をめざして、より一層、漉(梳・鋤)いていかなければ。

何が出てくるかが楽しみ!

 

 

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