「知足」ということ 「ありがとう」ということ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

 

こんにちは。

 

先日の台風が去ったあと、浄住寺も大変なことになってました。

大木が根こそぎ倒れて大変なことに。

寿命でもあったのでしょうね。

何も文句も言わずに何十年と浄住寺で楽しんでくれてました。

ありがとう!

人間以外は何も文句を言わずに今あることで一生懸命すごしています。

なんで人間は、次から次へと求めてしまうのでしょうね。

「もうこれでいいよ」という訳にはいかないのでしょうか。

という私も欲の塊かな?

今日は元曹洞宗官長、板橋興宗さんの「あたりまえでいい」ぐうたら和尚の”日々これ好日”より。

 

「足し算」の世界

 

人類は頭の中で考え出したものによって、壮大な物質文明を築いてきました。

しかし物質文明の世の中は、どこまでいっても「足し算」の社会です。

「もっと、もっと」と絶えず望み続け、満足することをしりません。

その結果、私たちの生活は非常に便利で快適になりました。

と、同時に、人間の欲望は拡大し続け、とどまるところを知りません。

今日、世界的な大問題になっている環境破壊や地球温暖化、原発の危機も、また核兵器の脅威も、拡大する欲望がもたらしたものです。

このまま「足し算」を続けていけば、近い将来、私たちの物質文明は必ず波錠し、人類はある意味で衰退に向かうだろうと思います。

もしそれを食い止める方法があるとすれば、人類全体が「足る」ことを知る以外にありません。

私たち個人も、また同じです。

 

小欲知足(しょうよくちそく)

 

「小欲知足(しょうよくちそく)」という言葉はよく知られています。

欲を少なくして、「これでいいんだ」「このあたりで十分だ」と自己暗示をかけることではありません。

「贅沢を言ってはきりがない、欲望は抑えて我慢しよう。不満や不平は駄目だ」。

そんなふうに自分に言い聞かせる「知足」は、まだ道徳の範囲です。

ここで私の言う「足る」「足りている」というのは、ありのままの自分であり、今、ここで息している自分に足りている、という「実感」です。

座禅とは、今、ここで足りている仏の姿です。

もっとわかりやすく言えば、「ごくあたりまえに息している」だけです。

私は修行僧と一緒に座禅して「足りている自分」を「実感」している毎日です。

それで、私は修行僧を指導し、鍛え上げるという観念はないのです。

いわば、修行仲間なのです。

修業年数が長いので、若い人たちに忠告したり解説などはいたします。

しかし、「足りている」ことを知るといって、のんべんだらりと、ぐうたらになることではありません。

平凡な毎日ではありながら、そこに生きがいを「実感」できる生き方こそ大切です。

それは、人それぞれの問題で簡単に論じられない、微妙なところと言えましょう。

 

ありがとうございます。

 

茶人利休の茶道理念にも「足ることを知って分に安ずる」という精神があります。

「南方録」巻頭の覚書に

「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにて足る事也。是仏の教え、茶の湯の本意也。

水を運び、薪をとり、湯を沸かし、茶をたてて、仏に供へ、人に施し、我も飲む。花をたて香をたく。

みなみな仏祖の行ひのあとを学ぶ也」ともあります。

必要な分を必要なだけ用意して茶をたてまず仏に供え、人に差し上げ施しして最後に自分も頂くという、謙虚な思いやる自利利他の精神が生きています。

これは古くて、また新しいこころなのではないでしょうか。

いやいや、今、何よりも必要なこころですね。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

まだまだな私ですが、浄住寺でこのこころに近づけるように、ぐうたらしてみようと思います。

 

参考
「足るを知る」忘れた日本へ
誇り伝えたい「利他の精神」

 



  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

スポンサードリンク
Translate »