一汁三菜とは? 茶の湯より学びます。

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一汁三菜は茶の湯から学びます

 

こんにちは。

炉開きのお茶会で、茶会料理は食べられましたか。

茶席では亥の子餅ですね。

お茶会は、美味しいお料理が食べられるから大好きといわれる方がいらっしゃるかも。

それも楽しみの一つ、「おおいに良し!」です。

さて、茶の湯についてはいろいろな見方ができますが、日本で形成された飲食儀礼の一つであることはたしかです。

つまり、料理を食べ、茶を飲むことを内容とする会合の形式や作法をととのえ、そこに独自の意味づけ(思想)を与えたものといえるでしょう。

そこで、まず茶会の内容をなす飲食の文化からはじめます。

今日は、神津朝夫さん著書の「茶の湯と日本文化」より教えていただきます。

 

会席料理?懐石料理?

 

茶会(今の茶事)で出される順番で、料理・酒・菓子・茶の順に話を進めます。

なお、茶会で出される料理を現在,ふつうは懐石料理と呼びますが、これは会席料理の書き換えとして近代になって広まった用字です。

しかも、会席・懐石ともに限定された狭い意味でも使われるため、誤解されやすい用語になっていますので、茶会で出された料理を単純に茶会料理と呼ぶことにします。

さて、その茶会料理の成立については室町将軍家で正式な饗宴とされた式正(しきしょう)料理がルーツとされ、一汁三菜は五つも七つも膳が並んだ式正料理を茶人が簡素化したものとする説明が長く続いてきました。

しかし、飯に汁一種と葉(おかず)三種がつく一汁三菜の食事は、たとえ特にそのような名前はつかないとしても、古代から常識的にあったものでした。

平安時代に描かれた「病草紙絵巻(やまいのそうしえまき)」に、すでに木地の折敷(おしき)に黒塗椀を使った一汁三菜の庶民の食事が描かれていますし、鎌倉時代の「源平盛衰記」巻三十三には、源義仲の食事について「御菜三種に平茸の汁一つ、折敷にそえて」」という記述もあります。

禅の雲水が使う食器である応量器(おうりょうき)は、大から小までの鉢五つを入れ子にしたものですが、それに飯・汁・菜二種、香の物を入れます。

これは一汁二菜でした。

一汁三菜の起源をわざわざ式正料理に求めたのは、実は茶の湯が室町将軍家で生まれたという伝承と整合させるためだったのです。

 


(平安時代の絵巻に描かれていた一汁三菜 「病草紙絵巻」より)

 

本膳料理と献立

 

室町将軍家の式正料理は献部と膳部の二部構成になったもので、まず肴(さかな)を出しては杯で酒を飲む「献」が最低でも三回はくり返されました。

その間に、贈り物の贈呈とか、杯事(さかづきごと)が行われます。

その後、別室に移って食事である膳部になり、ここでは脚付きの膳が少なくとも三膳、多ければ七膳も並ぶものでした。

ただし、室町時代の式正料理は信長・秀吉の時代に大いに改革され、三膳が基本となりました。

料理も「茶の湯のように質の上で内容をもったものになった」(ジョアン・ロドリゲス「日本教会史」第三十章)と書かれていますから、茶の湯に倣って品数を減らし、実質的な料理らしいものになっていました。

むしろ茶の湯の方が影響を与えていたのです。

このような武家の式正料理が、江戸時代になって料理屋で出されるようになり、本膳料理と呼ばれるようになりました。

もっとも有名だったのが、江戸時代で元禄年間に創業した八百善です。

ただし、料理屋の場合は献部と膳部で場所を移さず、同じ部屋で続けて出されるようになりました。

八百善は明治になっても本膳料理を出していました。

八百善八代目の栗山善四郎氏への聞書(江守奈比古「八百善物語」)に載る例では、まず「御献立」として十一献の肴、具体的には吸物、刺身、焼物、煮物などが次々と出されて酒を飲み、その後で「御本膳」として飯と味噌汁、香の物、少量の菜が二種類出されています。

その後、さらに「御二」(二の膳)が出て宴会へと続きました。

これを見ますと、肴の一品一品が立派な料理になっているので、客はもう献部で満腹になり、本膳がとてもかんたんなものになっていたことがわかります。

 

献部の品書きが「献立」に

 

みなさん、もうお気づきでしょう。

この料理の出し方が、今でも日本料理の出し方に引き継がれているのです。

たとえ懐石料理を売りにする料理屋でも、特に茶事をするのでなければ、飯と汁、香の者は最後にならなければ出てきません。

それまでは献部であり、その品書きが「献立」になっているのです。

 

ありがとうございます。

 

こうしてみますと、最初から飯と汁が出る茶会料理は、酒を飲む献部が先なる式正料理とはまったく違い、茶会料理はあくまでも通常の食事スタイルだったことがはっきりしますね。

なお、今は少量の飯と汁が出た後、酒一献が早く出ますが、それは江戸時代中期以降のことで、利休の頃は食事が終わってから酒が出ていたそうです。

浄住寺のお食事は「普茶料理」。

要予約ですが、普茶料理もお楽しくださいね。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

参考

普茶料理、「五観の偈」をご存知ですか。
ふと思ったこと 「文化」
日本の文化の遊びを知れば和の魅力を満喫できる!
日本の文化とは「心を分かち合う」文化
「世界に比類なき日本文化」 

 



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