「空(くう)」 本当の自分とは、何んにもないこと

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空(くう)

こんにちは。

いつの間にか梅雨も明け、夏到来。

夏といえば「雷(かみなり)」。

夏に最も多い積乱雲による放電現象で、雨や雹(ひょうう)を伴い、停電や火災を起こすこともあります。

現代俳句では雷を「らい」と音読みすることが多く、「遠雷(えんらい)」「軽雷(けいらい)」「落雷(らくらい)」「雷雨(らいう)」などあります。

また、「はたた神」「日雷(ひかみなり)」という古風な呼び方もあります。

そんな、雷さんを雷神さんとしてしまう日本人、古来、自分をどう見てたのでしょうね。

 

「なにもない」が「ある」理由

 

どうも人間は「自分」というものに、とらわれます。

よく「自分探し」という言葉も耳にします。

しかし、そもそも「自分」というものはありません。

こう言ったら、服をすべて脱いで、裸になって、「ここに自分があるじゃないか」と、言うかもしれません。

でも、体のどこが「自分」なのでしょうか。

もし、腕を一本なくしたら、「自分」は減ったことになりますか。

ならない。

ならば、その腕は自分そのものではなかった。

他の体の部分も同じこと。

すると、本当の自分とは、なんにもないこと。

これを仏教では、「空(くう)」といいます。

 

 

 

インドのお話し

 

存在する物には、実体・我などというものはないというのが、仏教の考え方です。

インドにこのような話があります。

ある旅人が空き家に身を寄せていると、そこへ死体を担いだ鬼がやってきます。

鬼はその死体を食べるつもりなのですが、そこへもう一人の鬼が追いかけてきて「その死体は俺のものだ」というのです。

「いいや、これはわしが拾ってきたんだ」と、二人で喧嘩になってしまいました。

最初にやってきた鬼が「ここに人間か一人隠れている。その人間に聞いてみろ」と言います。

隠れていた人間は、最初にやってきた鬼をさして「この鬼さんがもってきた死体だから、こちらの鬼さんのものだ」と。

すると、追いかけてきた鬼が怒り、その隠れていた人の腕を引きちぎって投げ捨ててしまうのです。

一方の鬼は「なんて可哀そうなことをするんだ」と、死体の腕を引きちぎって、隠れていた人にひっつけてくれます。

怒った鬼は、また隠れていた人の体を引きちぎる。

すると、もう一方の鬼が死体の同じ部分をくっつけてくれる。

これを繰り返し、とうとう隠れていた人の体は、死体の体とすべて取り換わってしまうのです。

隠れていた人は悩みます。

「体がすべて入れ替わってしまった。自分は一体何者なのだ」

悩みに悩んだ人間は、あるお寺の高僧のところへ相談に行きます。

事の次第を話し、自分は一体何者なのでしょうかと尋ねると、お坊さんは答えます。

「そもそも、自分というものはないんだよ」と。

 

自分という存在はない

 

腕や足はたしかに存在します

が、何かの事情でなくなったからといって、自分が目減りしたわけでも、欠けたわけでもありません。

今や医療は進化して、他人の内臓を移植して生きながらえることができる。

でも、心臓を移植したからといって、違う人間になるわけではありません。

体の一部が入れ替わっても、たとえすべてが取り替えられても、人は生きられるようになる時代がくるのかもしれません。

しかし、本当の自分というのはどこにあるのかというと、そもそも「自分」というものはない。

参考:ありがとう すみません お元気で 著:河野太通さん

 

 

ありがとうございます。

地球が球体であることを知らなかった古代人たちは、船がしだいに見えなくなるのを見て、海の果てには急な段差があると思っていました。

そこが人との国と海神の国の境であると信じていました。

知らなければ、信じていることが正しいことに。

自分というのも、見た目の体ではなく、その体に宿っている心と信じれば、心が一番大切かも。

その心、どんな心が一番素敵なのかは、長い歴史を振り返りながらご先祖さまたちが大切なにしてきたことを一人一人が知ることかもしれませんね。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

私の大切な心は、八百万、すべての物に、目に見えないものまでにもありがとうと思える心です。

 



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