禅とは何か  根本は「本来無一物」のこころ

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「ありがとう」と思うことが幸せ

こんにちは。

今、私がとっても気になる言葉が「オキシトシン」。
ご存知ですか?
脳内オキシトシンが病気を治し、幸せを呼ぶといわれています。
私がこの和の素敵を始めたのも本当の健康を求めて。
本当の健康とは「心」と「身体」がともに健康であること、健康とは私的に「幸せ」と思っています。
なので、日本の古からの八百万、あらゆる事や物に対して「ありがとう」と思えることが健康につながると思い、学び経験してきました。
でも、どこかでこの「ありがとう」の効果がエビデンスで立証できないかなと思っていた時ご縁をいただいた「オキシトシン」。
もっともっと学んで、また、みなさまにお知らせしますね。

そこで、茶と禅にも共通にオキシトシンがあふれてくるのではないかなと思っています。
そこで今日は、伊藤古鑑さんの「茶と禅」というご本からいろいろと学びたいと思います。
それでは一緒に学んでいきましょう。

禅とはほんとうの自己に徹すること

禅とは、インドの言葉で禅那(ぜんな)といい、これを訳したものにいろいろな言葉がある。
静慮(じょうりょ)とか、思惟修(しゆいしゅ)とか、功徳叢林(くどくそうりん)という言葉もあるが、これらはみな、禅の説明であって、禅そのものではない。
禅は実修のものであって、われわれが精神を統一することによって、こころの散乱を防いで、ほんとうの自己に徹することである。

ほんとうの自己、これが、なかなか一般人には理解のできないことである。
禅の専門語としては、「本来の面目」とか、「一無位の真人(しんにん)」とか、「主中の主」とか、いろいろの言葉で、そのものをあらわしているけれども、それをほんとうに摑むには、やはり十年、二十年の座禅を要することである。
いわゆる禅の師家に参じ、その指導を受けて、みっちりと修行するにかぎる。

しかし、それでは、一般の人にとっては、まったく縁のない話になって、われわれの生活とは、なんのかかわりもない遠いところに放りやったようなものであるから、それを、ぐっと手先に引きよせて、「生活即禅」「平常心(びょうじょうしん)是れ道」というようなことが、盛んに説かれるのである。

自己をとっくりと見つめませんか

われわれの日常生活は朝から晩まで、二六時中、動きまわって、次から次へと労働の連続である。
精神の労働もあれば、肉体の労働もあるが、そのはげしい労働のなかで、一道の清閑を得て、心のゆとりを見いだし、その労働に専念している自己本来の姿を見つけることを、まず、禅に入る第一歩というのである。

これを通俗的の言葉でいえば、自己の内観反省である。
自己が、こんなに朝から晩まで働いているが、その動いている自己を、とっくりと思惟(しい)することである。
静かに、落ち着いたところで、じっと自己を見つめることである。
自己といっても、分別する自己ではない。
善いとか悪いとか、迷いとか悟りとかいう対立的な分別を打超えて、主中の主と、どっしりと腹を構え、そこに、自己という小さいところを、大いなる宇宙偏在のこころに持って行く、いわゆる天地と同根、万物と一体という本来の姿を見とどけるのを、禅そのものの根本義というのである。

さて、その根本のところを、本来無一物(むいちもつ)のところとも呼んでいるが、その「本来無一物」のなかに、花あり月あり楼台ありであって、その時その時の縁に応じて、自由自在に、働きが出てくるのである。
茶に遇(あ)うては茶を喫し、飯(はん)に遇うては飯を喫する無造作の動作、それが禅の働きであって、ここのところが最も貴いのである。
永嘉大師(ようかだいし)(唐の人。生年不明-713)の「証道歌」に、「行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然(どうじょうあんねん)、たとい鋒刀に遇うとも常に坦々」といっているが、動中の静、不動智の神妙、これが禅そのものの醍醐味である。

ありがとうございます。

千利休が茶禅一味の悟りの境地として「水を運び、薪をとり湯を沸かし、茶をたてて、仏に供へ人にも施し、我ものみ、茶をたて、香をたて、皆々仏祖の行ひのあとを学ぶなり」と茶の湯の本意を語っています。

仏さまにお茶を供え、人に施し、そして最後に自分がいただく。
茶の湯とは迷いや煩悩の多い自分を無(空)にし、心静かに仏の境地に至るために茶を点てる。
この茶を点てる手前を通して生きている本当のことを知ることでしょうか。
世俗の垢や愛憎の念、欲望から解放され自由な心で茶を点てることでしょうか。
そんな境地に至るには煩悩だらけの私はまだまだ。
常にすべてを捨てることはとても難しいことかもしれませんが、お茶を一服点てるときぐらいは無になりたいですね。

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
私の知人が大阿闍梨に「何を悟られました?」と尋ねたら「人間とは煩悩を捨てられないものだと悟った」と。
お釈迦さまもこのようなことを言いたかったのではないかなと思います。

 

「茶と禅」著:伊藤古鑑さん



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