「葉室顕隆」葉室家家祖 「夜の関白」

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葉室家とは

葉室家は名家の家格を有する公家です。

藤原北家勧修寺派の支流で、藤原高藤のの後裔で、参議藤原為房の二男・顕隆(延久4年(1072)~大治4年1月15日(1129年2月5日)を家祖とします。
藤原鎌足(推古天皇22年(614)~天智天皇8年10月16日(669年11月14日)から数えて高藤で8代目、為房が15代目、顕隆が16代目となります。
葉室家、家祖顕隆から数えて現当主が38代目となりますから、鎌足から数えて53代となります。

家名は、3代光頼が京都洛西の地、葉室(京都市西京区葉室)に営んだ別業に因みます。

別業とは、古代貴族の別荘のことで、藤原京の成立以後、貴族は京内に居住するのが一般的になったため、別業は狩猟や花見などの遊びの行う場所として用いられていました。

現在の葉室の地には菩提寺の葉室山浄住寺が建立されています。

 

葉室顕隆

藤原北家、高藤の7代孫の為房(堀川天皇・鳥羽天皇の乳母藤原光子の兄)の二男として延久4年に生をうけます。

【藤原光子】(康平3年(1060)-保安2年4月16日(1121.05.04)は平安時代後期の女官で、藤原公実の側妾となり8人の子女を生み、堀川天皇・鳥羽天皇の乳母として政界に隠然たる力を持ち天仁元年(1108)に正三位に叙されます

父・為房と同じく白川法皇に近臣として仕えます。
承徳2年(1098)(26歳)破格の出世で右小弁となります。

【小弁とは】朝廷の最高機関、太政官の職をいいます。左大弁・右大弁・左中弁・右中弁・左少弁・右少弁の総称です

保安元年(1120)に藤原忠実(たださね)の内覧が停止されると、その権勢は当たらざる勢いとなります。

【内覧とは】天皇にた奉る文章や、天皇が裁可する文章など一切を先に見ること

翌保安2年(1121)に忠実が関白を辞した際には忠実の叔父・家忠の後継就任案が浮上しましたが、稲荷祭の際に院近臣として顕隆と法皇の寵愛を競っていた藤原顕李が家忠と密談していたという情報を手に入れると直ちに法皇に反対論を述べこれを退けさせるなど、自らの官職を超えて重要な政策の決定に関わりました。

【藤原顕季】 藤原北家魚名流の公家、歌人。顕季から始まる家系は善勝寺流と呼ばれ、四條家をはじめとして7家の堂上家(羽林家)を輩出しました

【堂上家とは】公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂(みなみひさし)にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族ともよばれます。江戸時代末期には137家がありました。

「今鏡」によれば、それが夜になってからのことが多かったので「夜の関白」とあだ名されました。
「中右記」には「天下の政、この人の言にあり」とまで述べられており、院政期を代表する政治家の一人でした。

日記として「顕隆卿記があり、京都大学総合博物館(勧修寺家本)、及び国立歴史民俗博物館に伝わっています。
子孫は後世において葉室家を称し、中世・近世を通じて堂上家(名家)の一つとして繁栄しました。

顕隆は現在の三条通(東西道)と新町通(南北道)の交差点の西北角付近で、平安京の左京三条三坊四町にあたるところに住んでいたいとされてます(三条西院)。

『今鏡』「すべらぎの中 第二 釣せぬ浦々」(講談社学術文庫版 上 p271)
において、白河院が、顕隆に、「『弁官に任命しよう』とは思うが、漢詩を作らないではどうして(弁官に)なれようか。律詩を作れるものが弁官になるのだ」と言ったので、顕隆さんは、びっくりして漢詩文を愛好しました。

第宅は、五条第、三条西洞院第、晩年に八条堂。
第74代天皇、鳥羽天皇は藤原顕隆の五条邸において生まれていらっしゃいます。

 

妻:藤原悦子、鳥羽天皇の乳母。
男子:藤原顕頼(1094-1148)が葉室家2代目となります。
女子:藤原栄子は崇徳天皇の乳母

妻:源顕房の女
男子、顕長(1118-1167)
顕長の子、観性法橋は源算上人によって開かれた善峯寺(京都西山)の二世とされてます。

 

ご先祖さま、ありがとうございます。
これからも宜しくお願いいたします。

 

参考
wikipedia 葉室顕隆
weblio 弁官
産経WEST 2018.01.16
京都駅で見つけた庭園後
京都西山善峯寺
月桜「藤原顕隆」

写真:葉室山浄住寺



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