「夕霧・伊左衛門」 歌舞伎のよこ道あるき♪第8回
第8回 夕霧・伊左衛門
松竹座での「壽初春大歌舞伎」はご覧になられましたか?
夜の部では、「夕霧名残の正月」が上演されましたね。
美しく幽玄で、夕霧の残像がとても儚い舞台でした。
◆夕霧太夫
今年のお正月は、「夕霧、伊左衛門」でいっぱい☆
松竹座の「夕霧名残の正月」。
シネマ歌舞伎では、「廓文章吉田屋」。
そして、国立文楽劇場でも「曲輪ぶんしょう」が!
歌舞伎でも文楽でも大人気の夕霧太夫。
実は、実在の人物だったんです。
京都嵯峨野生まれ。
京都島原で、絶世の美女として名を馳せ
太夫へ上り詰めます。
太夫という職は、「松の位」。
器量だけでなく、各種芸事にも秀でているのは
もちろんですが、
公家同様に都の街を籠に乗っての移動や、
大傘を差して歩くことが許された特別な存在だったそうです。
1672(寛文12)年、置屋の扇屋が島原から大坂新町へ移転。
夕霧も新町へ。
大坂で初の大夫!
夕霧が大坂へ下るのを待ちわびた人々が
船着き場に、「今日か」「明日か」と詰めかけたそうです!
生まれ年は不明ですが、1678年(延宝6年1月7日)に
亡くなりました。
享年は、26歳(22歳とも)。
美人薄命ですね…。
大坂中が悲しみに暮れたそうです。
大阪浄国寺で今も静かに眠っておられます。
昨年末、お参りしてきました。
筒状の墓石がやわらかで、
どことなく華のある女性らしいお墓でした。
◆初代坂田藤十郎と夕霧狂言
松竹座で上演された「夕霧名残の正月」の初演は
1678年、夕霧の亡くなった翌月(2月)に追悼公演として上演されました。
その後、同年に6月、10月、12月の計4回。
翌年1月は、「夕霧一年忌」。
三年忌、七年忌、十三年忌、十七年忌と続きます。
この時、藤屋伊左衛門を演じているのが
初代坂田藤十郎です。
夕霧が亡くなった年、藤十郎は31歳。
こちらも、超気役者でした。
美しい藤十郎が、嘆き悲しむ舞台は、どんなに胸をうったでしょう。
もしかしたら、夕霧とも面識があったかも?!
そんな文献は残っていませんが、
そうだとしたら、素敵な舞台だったでしょうね。
◆近松門左衛門と夕霧狂言
初代藤十郎とタッグを組んでいたことで有名な近松門左衛門。
夕霧の亡くなった年は、26歳。
人形浄瑠璃作家として、お仕事をしていたころです。
少なくとも、十三年忌までは
近松の作ではありません。
藤十郎のために近松が書いた夕霧作品は
1695年「夕霧阿波鳴門」
1697年「夕霧七年忌」
の2本。意外と少ない?
文楽とシネマ歌舞伎で上演された「吉田屋」は、
「夕霧阿波鳴門」がベースになっています。
このお芝居は、ハッピーエンド。
華やかで、明るいお芝居で、大好きです。
◆紙衣
文楽も、歌舞伎も吉田屋の伊左衛門の衣装は、
何かしら文字が書かれています
これは、夕霧からの恋文。
七百貫目の借金をつくり、親から勘当された伊左衛門。
新しい衣服が買えず
夕霧からの恋文を着物に仕立てて着ています。
総身が「金」の伊左さま。
何をしても、オシャレです。
現代のお衣装は正絹のことが多いですが、
現藤十郎さんが四代目を襲名されるときは
本当に紙の衣装を召されました。
「紙衣(かみこ)」と言います。
初代坂田藤十郎も伊左衛門を演じる時は、紙衣でした。
藤十郎の中で、「伊左衛門」は特別な存在で
「紙衣」は、藤十郎の代名詞。
藤十郎が引退するとき、大和山甚左衛門に芸の継承として
「紙衣譲り」を行ったそうです!
さて、
藤屋の若旦那伊左衛門は、七百貫目を使い込んで
親から勘当されています。
七百貫目って、いくら?
現在のお金に換算するのはとっても難しいのですが
銀一貫目は、銀千匁
小判一両は、銀60匁
算数が苦手なわたしは、もうわかりませ~~~ん(汗)
Webサイト「Kabuki on the web」によると
8億円以上を夕霧につぎ込んでいたようです。
ひえぇ~~~!
さすが、藤屋の若旦那!!
わたしも「総身が金やさかい、きつぅ~冷えます」とか、
言ってみたいです。
「ただの冷え性や!」と総ツッコミされて終わりですね。
2020(令和二)年 睦月 安積美香
ありがとうを世界中に
Arigato all over the World