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「神社と神道の歴史」第12回・最終回 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史(第12回・最終回) 著:白山芳太郎

明治以後における神社と神道の展開について見てみよう。

前代末期、復古神道・垂加神道などの思想に基づき、黒船来航以後の時局に対応できない幕府を倒し王政に復古しようという尊王討幕運動が起きた。
幕府は政治を天皇にお返しする(大政奉還)とした。
その後、王政復古の大号令が出されることとなるが、これは岩倉具視や薩長が倒幕のために行った宣戦布告であった。
岩倉らの思いきった決断が官軍を勝利に導き、近代日本への道を開いた。

これ以降の新政府樹立の動きのなかで、 その政治理念は根底に復古神道を置いていた。
これにより、それまでの神仏習合にもとづく様式の一掃を計り、 国学で唱える「祭政一致」を実現しようとした。

それまでの神仏習合を廃止しようとして、慶応4年(1868)3月13日~明治元年(1868)10月18日にかけて一連の太政官布告・神祇官事務局達・太政官達(その総称を神仏判然令という)を出した。
神仏判然令は神社に出された法令であって、神社には神宮寺があるため、それに対し土地、建物、本尊、仏具、仏典を無償で譲渡して独立させ、神社の事務を僧の姿で行って来た者が神職に転職したい場合には、これを許すようにと言うものであった。
ただし「神仏判然」は江戸時代から岡山藩、尾張藩、水戸藩、淀藩、会津藩、松江藩などの諸藩で行われていた。
尾張藩の真清田神社では「梵鐘」(天野信景(さだかげ)の『塩尻』に文明13年《1481》の当社の鐘の銘が引用されているが、現存する鐘銘によると鋳直しが行われ、宝永2年《1705》当社に奉納された)が仏教的であり神社にふさわしくないということから享和4年《1804》に撤去し、海部郡甚目寺町普光寺に売却され、同寺に現存する。
「梵鐘」は煩悩を除くとされただけでなく、付近住民に時刻を知らせる道具としても機能していた。
そこで「梵鐘」のなくなった真清田神社では「太鼓楼」(『尾張名所図会』にその絵が掲載されているが現存しない)を建てて、太鼓で時を知らせることとした。

出雲大社は中世以降、鰐淵寺(がくえんじ)の影響が強く、鰐淵寺の僧が出雲大社の神前で読経し、境内に三重塔(寛文年間に兵庫県養父市にある名草神社に移築されたものが現存)が建てられたりしていた。
出雲国造千家尊光(たかてる)は、松江藩の支援を受け、出雲大社の大規模な復元(寛文の御造営)を行い、それにより境内は現在の状態となった。
しかし、多くの神社では神仏習合が続けられ、神社には別当寺があった。
明治の戸籍制が成立するまで、人びとは寺請(てらうけ)制度下に置かれていて、寺が所有する「檀家帳」を戸籍のかわりとして代用していたが、神職の戸籍も同様であって「檀家帳」によっていた。
神職は藩主に「離檀」(寺の檀家から離れること)を願い出た。
それが許されると、神道宗門(神道宗・神宗・神祇道宗門などとも称し、各藩により異なる)を結成したが、それは本人と長男に限られた。
他の家族は、一般の人びとと同じ「寺請」下に置かれ「道中手形」の発行、葬儀、法事など、さまざまな点で寺の管理下にあった。
寺の権力はきわめて強く、一つの村に別当寺が置かれると、村内の他の神社の別当も兼ねた。

自然の山や川を神霊とし、その依り代の拝礼施設として発展してきた村の神社を中心とする村びとの生活は、村の社を拝むだけでなく、祭られている神の「本地(ほんじ)」とされる本尊を拝まねばならなくなった。
そこで本地仏のある「別当寺」へと足を運んだ。
明治になって「別当寺」は独立したが、前代の権勢への反発から、人びとは「別当寺」に参らなくなった。
また遠方の神社の氏子たちは他の集落にある「別当寺」にまで、参りに行かなくなった。

『明治維新神仏分離史料』によると、明治末期の(当時、天台宗大学と称していた)大正大学で、若い僧たちは「神仏判然令」といっても意味がわからず、明治初期の寺の苦境への理解が得られないため、老師がそれを説明して「神仏判然令、いわゆる神仏分離の令じゃ」と講義した。
その言葉が僧侶の間の慣用句となり、後には生徒の教科書用語に用いられ、現在に至っている。
実際に出された法律用語ではなく、出されて40年たって生まれた言葉であり、当時、あまり使用されていなかった。
教科書では「神仏判然令(神仏分離令)」と併記されるが、生徒は説明語を好む傾向にあって、後者を暗記する。
旧憲法を上部法とする単行法であって、新憲法の施行(昭和22年《1947》)とともに効力を失う。
歴史事実を法制史として叙述する場合は「神仏判然令」の語がふさわしい。
なお、この法がもととなって「廃仏毀釈」にいたったと教えられるが、幕藩体制の下部構造として、納税にかかわる戸籍や道中手形などの業務を独占してきた寺への民衆の明治になってからの反発を教えないため理解されないのであって、業務終了で生じた民衆の解放感から起きた破壊行動であり、宗教施設としての寺と社の境内分割そのものが「廃仏毀釈」につながるとは思えない(また寺の経済的苦境は後の「上知令《あげちれい》」によるものであって、それは後述する)。

讃岐国一宮(田村神社)と四国33番札所(一宮寺)、あるいは熊野那智大社と西国1番札所(青岸渡寺)など、寺と社の境内分割が行われ、寺のみ参るか、社のみ参るか、両方に参るか参詣者に宗教選択の自由が与えられたのであって、一方的に寺へ参らせないようにしたという事実はない。
また神社に出された法令であるから、東寺における東寺八幡宮、薬師寺における休ヶ岡八幡宮、愛知県豊川市にある妙厳寺の豊川稲荷の場合など、今も分離されず神仏習合時代のままである。
ただし、急激な「離檀(りだん)」行動が起きた場合がある。
奈良県の大神(おおみわ)神社が鎮座する三輪村など、一村全体で「離檀」が行われた。
旧神宮寺(大御輪寺)の境内で、各家庭の仏壇・仏具を焼却した。
大御輪寺本尊(国宝の十一面観音像)は、多武峰村の聖林寺(本尊は地蔵菩薩像)に借用され現在にいたっている。
大和国全体の一宮において、その本尊として造仏されたものであり、村の寺が造ったものではなく、大和国全体の人々により信仰されていた仏である。
明治2年(1869)談山権現は「妙楽寺」を廃寺にし、僧は復飾(「飾り」とは髪の毛のことであり、僧が髪の毛を伸ばすこと)して神職となった。
そして「談山権現」が「談山神社」と改称(十三重塔など妙楽寺時代の仏教施設はそのまま残されており、神仏習合時代の姿を伝えている)され、本尊(阿弥陀三尊像)は安倍の文殊院へ移された(同院に釈迦三尊像に改められ、現存する)。

これに比べると格段に厳しいのが、明治末期に行われた神社合祀令である。
神社合祀令とは、明治39年(1906)8月10日の勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地の譲与に関する件」を受けた同月14日の内務省通牒である。
それによると「府県社以下神社ノ総数、十九万三千有余中、由緒ナキ矮小(わいしょう)ノ村社・無格社夥(おびただ)シキニ居リ、其ノ数十八万九千余」であって「神社ノ体裁(ていさい)備ハラズ、神職ノ常置ナク、祭祀行ハレズ、崇敬ノ実挙(あ)ガラザ」るため、神社の「尊厳ヲ計(はか)」るため、1村に鎮座する社を1社にするというものであった。
その結果、氏子の居住地域の遠近、由緒、規模に関係なく、それまで村の小字に1社ずつあった神社が1村1社とされ、19万あった神社が明治42年(1912)に14万7000(3年間で4万3000社が取りつぶされた)となった。
瀧川政次郎「稲八金天神社(いなはちこんてんじんじゃ)」(『朱』15所収、昭和48年、1973)によると、和歌山県でもっとも多かった社が、稲荷、八幡、金毘羅、天満宮であったため「稲八金天神社」という名にすることにより3社取りつぶせるとするものであって、南方熊楠は「稲八金天大明権現王子」は「神様の合資会社」であり「混雑千万、俗臭紛々、難有味(ありがたみ)少しもなし」とし、このような合祀策は「無識無学」な小役人による「我利我欲」であるとした。
また、神仏習合していたわけではない「興福寺」において、一条院(跡地に奈良地方裁判所が建っている)大乗院(跡地に奈良ホテルが建っている)の門跡以下が還俗して春日大社の神職となり、仏像類は明治38年(1905)と明治39年(1906)に興福寺から県に「譲渡願」が出され承認されて売却されるが、明治末期のことである。
古美術商を経てメトロポリタン美術館(快慶作地蔵菩薩立像)・ボストン美術館(快慶作木造弥勒菩薩立像)・MIHO MUSEUM(重文の持国天立像)・藤田美術館(重文の地蔵菩薩立像)・東京国立博物館(重文の文殊菩薩及び侍者像)・奈良国立博物館(重文の増長天立像・重文の多聞天立像・重文の十一面観音立像・重文の毘沙門天立像・重文の愛染明王坐像)・根津美術館(定慶作帝釈天立像)などに売られている。
春日大社と興福寺は、枚岡神社(河内国)と山階寺(やましなでら)(山城国)が奈良時代にそれぞれ首都に移転したのであって、神社と神宮寺との関係ではない。
僧侶と神職が同じ藤原氏で親戚関係にあったため、興福寺の僧たちは就活して春日大社に就職したのである。
興福寺は、江戸時代、幕府から2万1000石の所領が与えられ、1万石以上を大名といった時代であり、大名クラスの財力を誇っていた。
そういう所に起きた僧たちによる離反であって、こういうことまで神仏分離とはいえない。
実際は、幕藩体制が終わって旧民法下の戸籍が誕生し、納税面において檀那寺が所有する「檀家帳」に依拠しなくてよくなり、幕藩体制下、民衆支配の下部構造であった寺への民衆の感情を伏せて置くことから生じる日本法制史への誤認である。
「檀家帳」に基づく税システムが「戸籍法」に基づく税システムに移行したことにより寺の世俗的権力は終焉を告げ、それによって起きた民衆の破壊行動が「廃仏毀釈」である。
したがって、江戸時代において確立された葬儀・法事・墓地など、寺と檀家との純宗教的関係は、今も続いている。

明治2年 (1869) 国民に新政府の政治方針として神道精神を熟知させる「宣教使の制」を定めた。
翌3年 (1870)1月3日「神祇鎮祭の詔」が出され、天神地祇、八神殿および皇霊殿を神祇官内に祀った。
同日、宣教使をして「大教を宣布」させたのが「大教宣布の詔」である。
同年10月には官社以下大小神社の祭式・神職などについて調査させ、閏10月、各府・藩・県に対し、管内神社の「神社明細帳」(鎮座地、祭神名、由緒などを書いた帳簿)の提出を命じた。
また、明治4年 (1871)と明治8年(1875)の2度の「上知令(あげちれい)」によって、江戸時代に認められていた寺院領と神社領が没収された。
これは寺院も神社も平等に行われたのであり、寺院領だけが没収されたのではなく、「上知令」抜きに神仏分離で寺が苦境に陥ったと説かれるが、経済上の問題と信仰上の問題を混乱して説かれることにより生じた誤断である。
上知令は「廃藩置県」に伴うものであって、神社にとっても寺院にとっても経済的苦境に陥った。
寺院領や神社領を与えていた藩が消滅したためである。

西洋文明の受け入れが進み、政府機構も近代国家として樹立することが計られ、明治4年(1871)8月、神祇官は廃止された。
政府機構の近代化が整ったことから、神祇官が廃止され、神祇官が行っていた業務は「太政官」に移され、太政官の下に「神祇省」というものが置かれた。
さらに「神祇」という名についても弊害があるとされ、翌5年(1872)3月「教部省」となり「神祇」の名もなくなった。
同年4月には、それまで国学者に「大教」を宣布させていた「宣教使」が廃止され「教導職」となった。
新設の「教導職」は、神職と僧侶がとともに任用された。
ところが、法整備が進むととともに、神道を法的にどう取り扱うかが問題となり、明治15年(1882)1月、 神職・教導職の兼務が禁止された。
すると神職で「教導職」でもあった人びとのうち、独自の神道理論で教導に当たっていた人は、 それを不満とし、黒住教、 神道修成派、 出雲大社教、 扶桑教、 実行教、 神道大成派、神習教、御獄教、 神理教、 禊教、 金光教、 天理教、 神道大教を結成した。これが「神道十三派」である。

 


(黒住教本部)

 

明治22年(1889)大日本帝国憲法が制定されると、神道は、 宗教とは別であるとされた。
宗教ではなく道徳であるとされたのであって、これにより自然な宗教的発展が阻害されることとなる。
明治10年(1877)から教部省に代わって内務省社寺局が神社事務を取り扱うことになっていたが、明治33年(1900)になると、社寺局が神社局と宗教局の2局に分離されることとなって、神社は神社局の扱いとなり神道十三派は宗教局の扱いとなった。
大正2年(1913)になると、宗教局は内務省から文部省に移されることとなった。
この頃になると、神道という語より「神ながらのみち」という語が多く用いられるようになるが、日本における神道という語の始まりは『日本書紀』の終わりの方を担当した渡来系の執筆者により用明天皇の段に「天皇、 仏法ヲ信ジ、 神道ヲ尊ビタマフ」 と用いられたのを始め3度の記載がある。
日本で独自に発展をとげてきた信仰を『古事記』は「本教」や「神習」と呼び、用明天皇の段以前の『日本書紀』は「神教」「徳教」「大道」「古道」と呼んでいる。
江戸時代には、国学者たちは「神道」という語(中国の古典では墓への通路を「神道」と呼んでいる)を嫌って「皇道」「大教」「本教」などと称し、明治になると「大教」を多用し「大教宣布の詔」などと用いた。

大正時代になると、今度は「神ながらの道」と称した。
「神ながら」の出典は『日本書紀』の大化3年(647)4月の条に 「惟神(かむながら)も、 我が子、 治(しらさ)むと故(こと)寄さしき。是を以ちて、天地の初めより君臨(きみしらす)の国也」とある中の 「惟神」 をさすもので、この語に注があって「惟神とは、 神の道に随ふを謂ふ。亦(また)自(おのづか)ら神道有るを謂ふ」とあって、そこに出てくる「惟神」を 「かんながら」 と訓じ 「神ながらの道」 と称したものである。

大正14年(1935)筧(かけい)克彦という東大法学部の憲法・行政法の教授が『神ながらの道』という書を出版し、特に多用した。
このような状況が継承されつつ国際関係が緊迫化すると、国民思想の統一と称し、神社の祭祀が強調された。
そのような中、昭和15年(1940)内務省神社局が解消され、神祇院となった。
昭和20年(1945)第二次大戦が終結すると、占領した連合軍は、日本が神道を国教としていたものとし、 それを制限するとして「神道指令」を出した。
これにより全国の神社は、包括法人として神社本庁(神社本庁は『神社本庁庁規』によると、神社の管理・祭祀の執行・氏子の教化・伊勢神宮の奉賛・神職の養成を行う宗教法人)を設立し、その包括下に入って、今日(神社の多い県・少ない県・県別神社数は下の表の通り)に至っている。

 


(神社本庁)

 

最終回
ありがとうございました。

 

参考資料:都道府県別神社数(2020年)

 

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

 

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