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二條さま古事記のお話し スサノオ余談

聖徳太子の時代は「尊い(たっとい)」

今うちの近所には、中学生でブラザーとかシスターが沢山いるんです。
真っ黒な子が、すごくちゃんとした日本語、むしろちゃんとした日本語というより、ガキ語を使っているわけです。
中学の入学式が終わって2日後くらいに、友達同士で、一人ブラザーがいて、その中を囲んでいて、「お前、英語得意でいいよな。」という風に子供達が話していたら、「英語知らないし。」とか言う。
それを言ったのが、そのブラザーですよ。
今もそういう状況になってるじゃないですか。
うちの近所でも、本当に黒人だの白人だのだけじゃなくて、イラン人だとか沢山いるわけです。
そういう状況が奈良でもあったんですよ。
一時期、まさに聖徳太子の時代はそういう時代だから、世界中のそういう人達と同じテーブルに座っていた。
あの当時は、大変な貧富の差も勿論あった時代ですね。
今もそうですけれども、病気で手がなかったりとか足が不自由だったりした人もいる。
そういう人が同じテーブルの上に座って、色んな意見を言う。
こういう事が「尊い(たっとい)」と言ったのです。
「とうとい」のではない。
色んな意見を言う事が「とおとい」と思っていると、小さな意見一つは「マイノリティ」という考え方になってしまうんです。
「たっとい」というのは、「どんな少数派の意見も、その場で出されていい」という事。
そして、「それを理解する必要がない」という事。
意見が違う人の言葉を理解する必要がないという事なんです。
認識するという事が「たっとい」事なんですよ。
私はゲイです。
でも、ここの人達はみんな知っているんですけど、私をセクシャリティとして特別扱いしません。
だからといって、〇〇君がゲイか?というと、ゲイを理解してないでしょう。
分からないですけどね。
もしかしたら、キスぐらいはした事もあるかもしれない。
〇〇君は、私がゲイである事は認めるけど、自分がゲイである事は認めません。
理解していないのです。「私のゲイ」を。
ただ、私がゲイであるという事を皆は「確認」しているんです。
それでよし。
これが「たっとい」事なのですよ。
これを、マイノリティの意見を殊更大切にして、私がゲイであるという事が「とおとい」事であるという事になってしまうと、「マイノリティの少数派の声の大きいやつ」これが先導していっちゃうんです。
その先導は、怖いですよ。
それがベクトルの方向になっていってしまうから。
全員そんな風に思っていないかもしれないんだけど、声のでかいマイノリティが一人いると、「ああ、それもちょっとしょうがないか」という気になってしまうんです。
「あの人逹がそう言うんだったら、まあ自分は我慢出来るから、あの人逹さえ困らなきゃいい」と、そういう事になって、それが大きなベクトルとなって、みんなが認めたのでも理解したのでもなんでもないんだけど、声を大きくしちゃって。
これは、「とおとく」しちゃっているからなのです。
マイノリティの声も、マジョリティの声も、「たっとい」のであって、「とおとく」はない。
ただし、多様性を失敗させようとする動きがあると、これを「和(わ)をもって尊(とおと)しとなす」と読ませていく。
一時、日本で和ブームが来ました。
日本人なのに、「和が好き」という、「和文化プロジェクト」なんて言って、国も一生懸命やっている。
そんなに囲いたいですかね。
日本は、そんなに囲わなければ、どんどんいい文化を発信する国なんですよ。
あの漫画のアニメーションの文化。
あれは、政府がちっとも手を入れなかったから、あれだけ伸びたのです。
急に政府が手を入れるようになったら、途端に中国に持っていかれちゃうようになってしまいますよ。
惜しい事をしましたね、京都アニメ。
あれは可哀想な事でしたね。

ありがとうを世界中に
Arigato all over the World

 

「とおとく」でなく、「たっとい」

私はあそこで出来た「スピード」というBLのアニメーションが凄く好きだったのだけど、皆なくなったらしいです。
京都アニメは良いアニメーションを作っていたそうです。
優秀なアニメーターが沢山いたそうですが、大変な事をしましたよね。
なのに、急にサブカルチャーというのを「とおとく」しちゃっているんですよ。
「とおとく」したら急に駄目になっていく。
「とおとく」でなく、「たっとい」から面白いのです。
規制がないから面白いんですよ。
日本というのは、そういうものなのです。
茶の湯もそうです。
茶の湯が出来た時は「好きもの」と言ったんですよ。
茶室の事を「すきや」と言ったんです。
好きな人しかやってなかったから、その人の好みしか使わないから、「好き者」と言うんです。
日本の建築や和の建築においては、「すきや」なんてあってはいけないんです。
例えば、壁を途中で塗らないようにしてしまって中の梁を見せちゃうとか。
少しだけ残したりとか、木は本当なら北山杉の床の間で、皮なんか全然残しちゃいけないのに、好き者は「ここから下、皮を残してくれ。」とかね。
「いやいやいや、お雪舟(?)、そこいったら虫が食って茶室が悪くなりますよ。」
「悪くなった方がいいじゃねえか。潰れた方がいいよ。」というのが、好き者の考えです。
だけど、それを「いや、四畳半の茶室はここに炉を切って、ここに床柱をつけて、というのを決めたら途端につまらなくなる。
「とおとく」しちゃダメだ、と教えたのが、スサノオ様なのです。
そしてそれがスサノオの人心の根幹を成すところです。
多様性で、今まで日本は一回も成功していない。
残念だけど。

 

 

いい時代

多様性の国にしようとしたのに、こんな小さい国で、周りは海で、昔は違うかもしれないけど、こんな資源のない国でね。
なんか資源のない国、資源のない国って今政府が言ってるけど騙されちゃいけないよ。
小麦を食わなきゃいいんだよ。
米食ってりゃいいのさ。
米粉でパン作ってりゃいいだろう。
小麦がなくなったって言ってさ、大慌てしてさ。
ガソリンがなくなったって言って、ガソリンの値段上げてさ。
でも、ベクトルがそういう方向に向いている。
止められない。
「いや、どうにかして止めましょうよ。」って言ってくれるかもしれない。
日本が作るベクトルって止まらないベクトルなの。
ただ、もしかしたらと私は、今世、スサノオ様の考えが成るんじゃないかと、少し期待しています。
何がそう期待させてくれているかというと、年寄りではなくて若者。
若者が、そうしてくれるかなと思っていたんです。
私のちょっと下ぐらいの若者は自由だから。
僕より上の世代、というか、僕の世代ぐらいまで、みんな口々に年をとってから言う言葉は、「昔は良かった。」「あの頃は良かったね。」と言うんです。
私は全然そう思わないですね。
僕らの時代はいい。
本当に私の時代は良かった時代ですね。

今若い人に、「お前、いい時代に生まれてるね。」とは言えないです。
私より上の人達はすごく寂しい思いをしていたんでしょう。
私の時代はすごく良い時代だったような気がします。
まず、戦いがない。
言いたい事を言える。
やりたい事をやった。
お金を使った。
悪いけど、私より前の人達が言っているように、「昔は良かった」と言えない。
私の時代が一番良かったと思います。
そして、その次の時代、「お前たち羨ましいね。良い時代に生まれたね。」と周りの人達皆に言われたんです。
今の若い子達に、「良い時代に生まれたね」とはちょっと言いづらいです。
でも、こういう時代こそ実は多様性という事が一番問われます。
だから、ああいう時代が若い子達に来るかなと思うと、ちょっと来ないかもと心配するぐらい、今は嫌な時代ですね。
でも、こういう時代こそが実は多様性というものが問われてくる。

 

 

理解ではない認識するだけでいい

この間、『しゃぶ葉』というしゃぶしゃぶ屋さんに行ったんです。
高級なしゃぶしゃぶ屋さんに行けないのでね、スカイラークグループのしゃぶしゃぶ屋さんで『しゃぶ葉』というのがあるんです。
なぜ牛肉が食べられない私が行けるかというと、そこは豚肉のしゃぶしゃぶがあるんです。
あと、野菜が食べ放題なんです。
死ぬほど野菜が戴けるので行ったんです。
そうしたら、これまた入学式のお祝いか何かで家族で来ていた4人家族がいて、お父さんとお母さんと娘二人。
娘がどうやってしゃぶしゃぶを食べていたと思いますか。
寝そべって食べてたんです。
びっくりしたのは、スマホを片手に持って、鍋を箸でつつきながら食べてたんですよ。
入学式に行ってた子だから、多分、中学生とか高校生とかそういう子です。
それを見てる両親も、父親はこうやって、母親はスマホを見てご飯食べてるんです。
これを認められるかどうかの問題ですよ。
「あそこのうちの子供はね。」
でも、私はそれだって、子供が悪い訳じゃないでしょう。
親がそういう風にして自由に育てているんだったら、「それもそれで仕方なかろう」と思う。
本当なら、いくらファミリーレストランとはいえ、公の場所ですよ。
安いしゃぶしゃぶ屋とはいえ、ご飯を頂戴しに行っている方や、頂戴しようと思っている人がいる所で食べているという感じじゃない。
「餌じゃないんだからさ、戴けよ。」と思うけど、でも、それがあると確認出来たという事が重要。
理解する必要はない。
これが、「尊(たっと)い」という事です。
これを、「あれもありだね。」
ありなしで考えてしまうこと。
これは、「あり」と言った段階で、「尊(とうとう)し」としてしまう。
理解ではない、認識するだけでいい。
これを理解する必要がないというのが、「尊(たっと)い」という事だって事です。

 

 

ダイバーシティ 多様性

最近、そういう時代になって来ている気がするんですよね。
あれいいとは思わないから。
でも、注意してやる必要があるかどうか。
これが、私が隣の家のおっちゃんだったら、私は注意します。
私が子供の頃からずっと見てる子だったとします。
だったら、「お前ちょっとお座り。」と言います。
今、弟子が教えている子供で、凄く綺麗な女の子が二人いるんです。
一人が23歳、一人が28歳で、実はその子達は、23歳の子は中学1年から、28歳の子は小学校3年生からずっと知っているんです。
もし、その子達が同じ事をやっていたなら、私は、「やめなさい。家で戴いてるんじゃないから、ここは外だからやめなさい。」と言います。
これは、理解とかなんとかではなくて、私のことを認識している子供達だからです。
それをやるかどうかは別ですよ。
それを直すかどうかは本人の問題です。
でも、私は言うと思います。
ただ、そこに目の前に親がいて、そうやってやっている親は、それが良しと思っているんだから、そして、確かに、戴き方って様々だなと思います。
皆さんがよくご存知かどうかはわからないんですが、大東亜戦争の時の最後の総理大臣の近衛文麿というのがいるんです。
この人は、結核病を心配して、子供の頃から寝っ転がってご飯を食べていたんです。
あの近衛公が、家では寝っ転がってご飯を食べるというのを習慣になさっていたんだそうです。
だから、あまり外で一緒にご飯は戴かない。
ただ、もちろん陛下とか昭和様とそういう会があったりとか、そういう時にはちゃんとした召し上がり方をしているだろうけれど、家では個人的にはずっと寝っ転がってご飯を食べていたといいます。
だから、戴き方というのは様々だなという。
考えてみたら、犬だの猫だのに正座して食べろとは言えないし、もちろん人間と犬は違うという考え方があるかもしれないけれども、そういう事を理解するのではなくて、認識する。
この事が重要で、これが、今世もしかしたら、2400年、我が国で失敗し続けてきたダイバーシティというのが日本で完結してしまうんではないかというね。

 

 

スサノオという男はちょっと魅力的な男

世界中で言っている多様性というのは、嘘ですからね。
白人がやっている多様性というのは、絶対嘘ですよね。
アメリカ人が言っている多様性は、絶対嘘だと思います。
あれは民族の問題だけですもんね。
それも、結果「認める」という言葉を使うことに、もはやヒエラルキーがありますよ。
「多様性を認める」とは、認める側と認められていない側があるという事でしょう?
だから、白人が言っている多様性の時代というのは、本当に信じられない。
でも、日本の場合、私が見てもびっくりしたけど、多分周りの人もびっくりしなかったのかなと思うけど、ありっぽいというか、無視してるというか、「あ、そういう家族あるな」と認識出来た。
『スサノオ』という人心は、我々が望んだ多様性という我々の渇望が神様にしているんです。
従って、隣同士で仲良くならなくてもいいわけです。
祇園社と天皇社は仲良くなる必要がない。
もちろんベクトルがあるから、その中にベクトルがあると、「うちの神様が一番」という事になるので、喧嘩になる。
しかし拝んでいる神様は同じ。
これは不思議です。
この『スサノオ』を我々は大好きなんです。
我々に出来ない事をしてくれるから。
例えば、格好良いのは、川のほとりで泣いている爺さんと婆さんに声をかけて、「おいどうしたんだよ。」と言ったら、
「いや、毎年毎年、娘が大蛇に食われちゃって、最後の娘なんですよ。」と、顔も見てないのに、それ聞いただけで、「分かった。お前の娘を女房にしてくれるんだったら、俺が助けてやるよ。」とこう言う。
髭ボウボウで汚い格好をしていたんだけど、身長が凄く高いんですよ。
もう爺さんだって婆さんだって、
「これにだったら嫁にあげてもいいかな。」と思っちゃいますしね。
だから、そこでもうスーパーヒーロー。
そして、見たら凄い美人だった。
後から分かったんだけど、凄く嫉妬深い女の人だった。
フッと息をかけて櫛にして自分にグスッと刺すとこなんて、ちょっとBLじゃない。
BLだってドキッとしちゃうから。
私そんな事されたらドキッとしちゃうわ。
櫛にしてっていうね、刺して刺してって思っちゃうわよ。
大国主のいじめ方だって、この歳ぐらいになると、「ありだね」と思ってますね。
あんな可愛がっている娘を、どこの馬の骨というか、ちゃんとした馬の骨だったけど、ちょっと試してみたくなりますよ。
うちにも血は繋がってないけど可愛がっている娘みたいな子が沢山います。
それが、男を連れて来るんですよ。
そうすると、うち弟子とかも凄くいじめますからね。
なんとなくスサノオの気持ちもわからなくはないです。
まあ、一回殺してしまったりとかするし、少しきつかったですけどね。
蛇やムカデの部屋にぶち込んだりとかね。
そのぐらいの試練はね。
蛇の部屋というのは、結果、それ程までに巻きつかれてくる誘惑をどういう風にして切り抜けられるのか。
ムカデの部屋というのは、沢山足がある。
要は、逃げ道が沢山ある人との付き合い方はどうしたらいいのかという事を試す。
実際の虫ではなくて、そういう事ですよね。
巻きつかれたらどうするのか、逃げられたらどうするのかという事を考える。
そういう事を考えられる男かどうかというのは、やはり父親としては見たいですよ。
どういう人を連れて来たって、実はスサノオはスサノオは最終的にはガリバーみたいな事をされてしまう訳です。
建物に髪の毛を全部結いつけられて、さっと逃げて行く。
逃げていく時は分かってたわけです。
もう結いつけられている所から分かっている。
そこまでしてでも、大国主をどんなにいじめても、「ああ、ちゃんと解決出来る男だ」と理解したという事でしょう。
だから、それを聞いても、スサノオという男はちょっと魅力的な男ですよね。
あと、日本人として初めて外国に行って、そして鉄の技術を学んで来るというね。
ちょこっと行って学んで、ちょこっと行って帰って来て、オーソリティーになって帰って来るって、ちょっと憎らしくない?
要は、凄くIQの高い奴だったんですよ。

 

続きは次回で。
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.

#ありがとうを世界中に
#ArigatoAllOverTheWorld

 

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