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座禅とは1 「瓦を磨く」

 

禅の話

こんにちは。

現在、「禅-ZEN-」は、世界中で使われる言葉となっています。

この「禅」という言葉について、古人は「禅とは心の名なり」と言っておられます。

「禅」という名前をつけてしまうと、何か特別なもののように思えますが、それは、わたしたちが、お互いに平等に生まれながらに持っている「心」であることを示しておられるのです。

この「禅」、欧米では禅に「二人の鈴木」がいるといわれています。

一人は鈴木大拙、そして、もう一人は鈴木俊隆。

スティーブ・ジョブズが愛読した、鈴木俊隆さんの本「禅のバイブル」より、禅とは?

一読だけでは難しいかもしれませんが、少しでも感じれれば幸いです。

(下記「公案」とは、語録のことで、師匠が弟子に問答の形で残したものです)

 

カエルの話

 

公案は、あなたが、一瞬一瞬、自分がなにをしているのか、ということに気が付く前は、理解することがとても難しいです。

しかし、一瞬一瞬、今、ここで、なにをしているのか、ということに正しく気がつけば、公案というのは、難しくありません。

たくさんの公案があります。

私はカエルについてよく話します。

そのたびにみなさんは笑いますが。

しかしカエルは、おもしろいのです。

私たちと同じように、座っています。

しかし、自分がなにかそんな特別なことをしているとは思っていません。

みなさんが、禅堂で座っているときには、自分が特別なことをしていると思うでしょう。

ご主人は家で寝ているのに、自分はここで修行している!

自分は特別なことをしているが、主人はなんて怠け者なんだろう!

座禅のことをそう考えるかもしれません。

しかしカエルを見てください。

カエルは私たちと同じように座っていますが、座禅しているという考えがあって、座っているのではありません。

みていると、なにか邪魔なことがあると、しかめっつらをします。

なにか食べられるものが、飛んできたりすると、パクッと食べます。

座ったまま食べてしまうのです。

私たちの座禅もこれです。

別に特別なことではありません。

 

 

瓦を磨く

 

ここに一つの公案があります。

馬祖は、有名な禅師で、馬の師匠とも呼ばれました。

師は、六祖慧能の弟子、南嶽の弟子でした。

ある日、南嶽のもとで修行しているとき、馬祖が座禅をしていました。

馬祖は非常に体格のいい人で、舌が鼻まで伸びたといいます。

その声は大きく、座禅をする姿も立派だったでしょう。

南嶽は、馬祖が大きな山のように、あるいはカエルのように、座ってるのを見ました。

「なにをしているのだ」と南嶽は聞きました。

「座禅をしています」と馬祖は答えました。

「なぜ、座禅なんかしているのだ」と師は聞き、「悟りを得たいのです。ブッダになりたいのです」と弟子は答えました。

いったい南嶽はどうしたでしょう。

彼は瓦をとって、磨きはじめたのです。

日本では窯から瓦を出すと美しく磨きます。

南嶽も瓦をとって、磨きはじめたのです。

馬祖は師に「いったい、なにをされているのです」とたずねました。

「この瓦を宝石にしようと思ってな」と南嶽はいいました。

「いったい、瓦がどうすれば宝石になるのです」と馬祖はたずねました。

「では、いったい座禅をして、どうしてブッダになれるのだ」と南嶽は答えました。

「仏性を得たいというのか?しかし、お前の日常心以外に仏性はない。荷車が進まないとき、どちらをたたく。車か、それとも、引く馬か?」と師は弟子にたずねたのです。

 

 

いつもカエルのように

 

南嶽のいう意味は、なにをしていようとも、それは座禅である、ということです。

座禅というのは、ベッドで寝ているとか、禅堂で座禅をしているとかを越えているのです。

あなたの奥さんかご主人が家で寝ている、それは座禅です。

もし「私はここで座っている、しかし私の伴侶は家で寝ている」と考えたりすれば、あなたはここで足を組んで座っていても、それは本当の座禅ではありません。

あなたはいつも、カエルのようにならなければなりません。

それが本当の座禅です。

道元禅師は、この公案について、こう述べています。

「馬の師匠が馬の師匠になったとき、禅は、禅となったのである」。

馬祖が馬祖になったとき、彼の座禅は座禅となり、そして禅は禅となったのです。

(本:「禅マインド ビギナーズ・マインド」 著:鈴木俊隆さん

 

 

ありがとうございます。

自分で読みながら、書きながら、難しくてごめんなさい。

座禅で座っていることも、カエルが座っていることも変わりのないこと。

瓦を磨き続けること、決して宝石にはならないけれど。

わたしたちは、日々、自身の問題や、社会や世界の問題に追われていますが、その原因には、わたしたち一人ひとりの執着があるのではないでしょうか。

社会に生きるわたしたちが、お互いに、執着をせず、自我の押しつけあいをせずに施しあってゆくならば、どれほど素晴らしい世の中になることでしょうか。

そのために、わたしたちも、お互いに、少しずつでも、いろんなものを捨て、妄想・執着から離れる工夫をしてみませんか。禅は、そのためにあるかもしれません。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

我をなくす、そして、我をすなおに受け入れていく、そんな矛盾したことが教えかもしれませんね。

 

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