茶の湯の道 足利義満から義政そして利休へと
お茶文化はいつから
こんにちは。
千利休、現代なら総合美術プロデューサー。
総合芸術科ですね。
安土桃山時代の茶人、現代に至る茶道を大成し、織田信長や豊臣秀吉の茶頭を務めて天下一の宗匠と呼ばれました。
井上靖をはじめ、そうそうたる作家らがその生涯を描き、何度も映画化されたのも、その業績と秀吉の命による切腹という悲劇的な最期、周囲を彩る豪華な戦国武将たち・・・という要素があるからでしょう。
今でも多くの方が茶道を楽しんでいらっしゃいます。
そのお茶文化、始まりは、室町時代初期、足利将軍家を中心に茶道具が吟味され、お茶文化は優美に発展していきます。
3代将軍の足利義満が、京都の北山山荘(後の鹿苑寺金閣寺ですね)を中心に築いた、華やかで優美な北山文化を。
そして、現代へと続く「茶道(茶の湯)」の原型を作り、文化人として大流行させたのは8代将軍、足利義政(よしまさ)ですね。
義政は茶道の基礎となる東山文化を築きました。
その代表が、義政が建てた東山山荘(今の銀閣寺)の東求堂堂仁斎(とうぐどうどうじんさい)にある四畳半の囲炉裏の間。
これが今の茶室の原型となりました。
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北山文化と東山文化
足利義満がつくった「北山文化」。
義満は室町幕府の第三代征夷大将軍(1368~1394)で、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築きました。
初代、足利尊氏、父の義詮(よしあきら)が成しえなかった南北朝の統一を果し、有力な守護大名を次々と抑え込み強固な幕府の基盤を作りました。
そして、京都の北小路室町に邸宅(花の御所)を構えたことから「室町幕府」や「室町時代」という名称になりました(知らなかった!)。
北山文化の象徴である華麗なる建築「金閣」は、1階が寝殿造り、2階は武家屋敷風、そして3階には禅宗様が融合した多層建築です。
また、観阿弥・世阿弥父子を手厚く保護し、能を幽玄な世界、芸術へと高めました。
義満は武人として幕府を作っただけでなく、伝統的な公家文化と新しい武家文化、さらに中国(禅宗)が混じり合った文化を。
そして、優れた唐物(中国)の絵画や墨蹟・花入・香炉・などを観賞しながら、お茶を飲む茶の湯とした華麗なる「書院の茶」を高めました。
その後、足利政権の崩壊や応仁の乱などの大乱が勃発し、治世としては無能といわれる足利義政ですが、文化の面ではすぐれた指導者としての役割を果たしています。
晩年に築いた東山山荘を中心とした花開いた芸術や宗教は「東山文化」と呼ばれ、京都から全国へと広がりました。
義政は、義満からの派手な茶会ではなく、簡素で精神性を重んじる村田珠光を重用し「わび茶」、茶道の源流を確立していきます。
珠光は、形骸化した当時の政治や仏教を風刺するなど、形式にとらわれない行動と人間らしい生き方を追求する大徳寺の僧侶 一休宗純(そうじゅん)(一休さん)の門下に入り研鑽を重ねました。
風狂な精神を持つ一休宗純(皆さんご存知の一休さん)は、後小松天皇の御落胤(身分の高い男性が正妻以外の身分の低い女性に産ませた子)とも言われ、ボサボサ頭にボーボーの髭という風貌でしたが、庶民の評判が高く、花や連歌に精通した多くの文化人が一休のもとで研鑽を積んだと伝えられています。
(参考:八代将軍 足利義満など)

(写真:wikipediaより)
茶道は利休によって完成
利休の50~60代にあたる天正年間は、8世紀末ころに中国から入り中世をかけて進化してきた茶の湯が、利休という芸術家によって「茶道」に完成された時代と言えます。
実際に利休が考案したものは数多くあります。
茶室にいたる露地、小さなにじり口、楽茶碗など。
独特の美意識は今もスタンダードです。
むしろ利休によって日本的美の基準になったといえるかもしれません。
革新的だったのは、禅という宗教・哲学的要素を取り込み、芸の域を超えて精神性を持ったところです。
だからこそ武将もこぞって利休の弟子となり、茶道は武家の教養ともなりました。
そのスタイルは「侘茶(わび茶)」と呼ばれます。
利休自身は茶道の精神を「和敬静寂(わけいせいじゃく)」(主客は互いに敬いあって和やかに、茶室や道具は清楚に)としています。
一方で天下人・秀吉の側近として重用され、秀吉の弟の秀長が「公儀のことは私に、内々ことは宗易(利休)に」と言ったほどでした。
陶芸や建築、懐石料理など、利休が及ぼした文化的影響は時代を超え、利休色、利休鼠、利休箸などの言葉にも残っています。
(参考:産経新聞 読めばあなたも教養人 茶道)

(写真:武野紹鴎 wikipediaより)
ありがとうございます
室町時代中期に、対明(中国)との貿易で巨大な富を築いた境の商人は、利益の後に求める文化として茶の湯を嗜(たしな)みました。
応仁の乱で荒廃した京都の戦乱を避けるように、多くの人たちが自由都市である堺へと集まってきました。
その一人である武野紹鷗(たけの じょうおう)は、三条西実隆から和歌や連歌を学び、珠光の茶の湯を一段と進展させました。
紹鷗は境の豪商や武人とも交流を持ち、今井宗久や津田宗達、千利休をはじめとする多くのすぐれた茶人を輩出しました。
「茶の湯の道」改めてですが、足利義満からはじまり利休が残したものは、とてもすばらしいですね。
そこには歴史があり、その歴史の中に時がある。
それぞれの「時」の中で研鑽していくと「道」が開くのかも。
道を究めるとはこういうこと。
多くの人の心をいとめるのですね。
凡人には無理かもしれませんが、少なくても心の道だけはいつもまげずに歩んでいきたいです。
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
皆さんと一緒に茶の湯も楽しみたいです。
日本のすてきを一緒に楽しみましょう。
Thank you. Let’s enjoy the beauty of Japan together. 🌸🍵
参考
日本の文化は「みぎわ」の文化
日本の香り 世界に誇る文化ですね
今日は文化の日 文化とは?
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
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