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「神社と神道の歴史」序文 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史を連載するにあたって

(写真:東京国立博物館大神社展図録より『日本書紀』熱田本)

 

本年は『日本書紀』撰進千三百年の歳である。
『日本書紀』の後を継ぐ国家の正史『続日本紀』は『日本書紀』撰進を次のように記している。
「是より先、一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修す。ここに至り功成り、奏上す。紀三十巻、系図一巻」(養老四年<七二〇>五月癸酉の条)と。

この『続日本紀』の記事のなかに「日本紀」とあり、かつ『日本書紀』の後を継ぐ正史に『続日本紀』と名付けられていることによって、本書の書名は「日本紀」だったという説がある。
しかし『日本書紀』の各写本を見ると、いずれも「日本書紀」と書いている。
したがって「日本紀」であったのか「日本書紀」であったのか、現時点では不明である。

本書の編纂開始については『日本書紀』天武天皇十年(六八一)三月丙戌の条に、天武天皇の勅によって「帝紀・上古の諸事」を記定する事業を開始したと記されている。
そして『帝紀』や『旧辞』並びに壬申の乱における従軍日記、家々の伝承、半島の史書などを材料に執筆している。
さらに、中国の史書を参考にした文飾(ぶんしょく)を加えている。

本書の日本古典としての意義は、『古事記』とともに日本の神話を今日に伝えたことにある。
しかし問題として『古事記』は、その序文に、天武天皇からの命で「削偽定実」を加えたと言っていることに注意しなければならない。
「偽りを削り、事実を確定」するための作業、即ち、その時代なりに理解不能な部分に手を入れたというのである。

当時の判断で「削偽」つまり「話の筋を一本化するための異伝削除」を行っているということに注意しなければならないのが、日本最古の『古事記』である。
そういう手が加えられている『古事記』に対し、本書は「一書曰(あるふみにいわく)」として、各家々に伝わった異伝を残そうとしているのである。
このような配慮によって、家々により伝えが異なっていた実態を知ることができる。
『古事記』が三巻であるのに対し、本書が三十巻となっている理由の一つである。

したがって『古事記』しか読まないで『日本書紀』を読んでいないと、片寄った意見しか知らないことになる。
一例として『古事記』の列島誕生の段を読んでみよう。

「是(ここ)に伊邪那岐命、先に阿那邇夜志愛袁登売袁(あなにやしえをとめを)と言ひ、後に妹伊邪那美命、阿那邇夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを)と言ひき。如此(かく)言ひ竟(お)へて御合(みあひ)して、生める子(みこ)は、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)。次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みき。此の島は、身(み)一つにして面(おも)四つ有り。面(おも)毎(ごと)に名(な)有り。故(かれ)、伊予国は愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐国は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国(あはのくに)は大宜都比売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。次に隠伎之三子島(おきのみつごのしま)を生みき。亦の名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島(つくしのしま)を生みき。此の島も亦(また)、身(み)一つにして面(おも)四つ有り。面毎に名有り。故(かれ)、筑紫国は白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国(とよくに)は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曽国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂ふ」とあり、ここまでで、大八島は淡路島、四国、隠岐、九州の四島が、その初期に誕生することが知られる。

さて、その後を読んでみよう。
「次に伊伎島(いきのしま)を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)と謂ふ。次に津島(つしま)を生みき。亦の名を天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐度島(さどのしま)を生みき」とあって、壱岐、対馬、佐渡という国境線に沿った島々が出てくる。
これは海外との国際交流が発生して、この三島は日本のものだと主張するようになった最新の列島情報であると思う。
この伝承の古い姿を反映していると思われる部分として、大八島のあとに生まれる島々のことにも留意して読んでみよう。

「然(しか)ありて後、還(かへ)り坐(ま)す時、吉備児島(きびのこじま)を生みき。亦の名は建日方別(たけひかたわけ)と謂ふ。次に小豆島(あづきじま)を生みき。亦の名は大野手比売(おほのでひめ)と謂ふ。次に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたまるわけ)と謂ふ。次に女島(ひめじま)を生みき。亦の名は天一根(あめひとつね)と謂ふ」とある。

つまり児島半島、小豆島、周防大島、大分県の姫島が大事であって、この四島を加えると、島生みの神話は瀬戸内の島々と隠岐の島の八つの島が古く、しかも、ここまで読むと隠岐はいかにも不自然。
これは先ほどの三島と同じで、本来の大八島に入っていなかったのに、最初に引用した四島で大事な役割を果たした淡路、四国、九州と、児島、小豆島、大島、姫島、それと後述の本州の八島誕生の説話が本来の姿であったと考える。

さて戻って、大八島の最後のところを読んでみよう。
「次に大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故(かれ)、此の八島(やしま)を先づ生めるに因りて、大八島国(おほやしまぐに)と謂ふ」とある。

古来いわれるように、一音節の語が古く、火(ひ)、門(と)、吾(あ)、汝(な)、鹿(か)、猪(ゐ)などとともに一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)六(む)八(や)というような数詞が発生段階の日本語の中心であった。
つまり一から九まで順に数えるのは中国語である。
日本人にとって「指を屈することができない」という意味の「ここのつ」や「並べることができない」ということからくる「ななつ」のような四音節の語や三音節の語は、なかったのである。
日本人の数の数え方は世界でも珍しい両手で数える数え方だったようである。
HIとHIでHU、MIとMIでMU、YOとYOでYAと数えた。
ある段階、それ以上は数えられなかった。
たとえば「ここのつ」という場合の「ここ」は「こごむ」とか「こごまる」の「こご」であって、指を屈することができないという語と関係があると思われ、日本人にとっては八(や)が、ある段階における「数えることのできる最大数」だった。

したがって八尋殿が最も大きな御殿、八咫鏡が最も大きな鏡という意味になる。
このような大八島には多くの異説があった。
『日本書紀』の記載を整理すると、次の表の通りである。


本文   大日本豊秋津洲 伊予二名洲 筑紫洲 億岐洲 佐度洲(億岐洲とふたご) 越洲 大洲 吉備子洲

第一の一書 大日本豊秋津洲 淡路洲  伊予二名洲 筑紫洲  億岐三子洲 佐度洲 越洲 吉備子洲

第六の一書 大日本豊秋津洲 伊予洲 筑紫洲 億岐洲 佐度州(億岐洲とふたご) 越洲  大洲 子洲

第七の一書 淡路洲 大日本豊秋津洲 伊予二名洲 億岐洲 佐度洲 筑紫洲 壱岐洲 対馬洲

第八の一書 淡路洲 大日本豊秋津洲 伊予二名洲 筑紫洲 吉備子洲 億岐洲 佐度洲(億岐洲とふたご) 越洲

第九の一書 大日本豊秋津洲 淡路洲 伊予二名洲 億岐三子洲 佐度洲 筑紫洲 吉備子洲 大洲 

 

先述の『古事記』の伝承は『日本書紀』第七の一書に似ている。
同じ系統の家の伝承であろう。
しかも『古事記』が大八島ではないとし、番外に移していた「吉備の児島」や「大島」(おそらく周防大島)は、おおむね入っている。
また、瀬戸内から遠く隔たった隠岐と佐渡はかなり早いころより入れることになっていたであろうこと、『日本書紀』第七の一書を除き「壱岐」「対馬」を入れる説のないことを指摘できる。
諸説を検討してみると『古事記』の説はかなり進歩的であることが知られる。

 

さて、本書と和銅五年(七一二)に成立した『古事記』を合わせて「記紀」と称する。
「記紀」はともに写し継がれ、今日に伝わった。古代の史料は絶対量がとぼしいわけであるから、少なくとも『日本書紀』を読むためには『古事記』を参考にしなければならない。

ただし留意すべき点は、書名に「日本」という国号を冠していることである。
いうまでもなく、これは中国の史書にならったものであるが、その意味はまったく違うのである。
中国は王朝交替容認の国で、王朝は次から次へと交替する。
したがって、ある王朝の歴史は、その国が滅んだ後に、次の王朝の手で編纂された。
周の歴史を書いた『史記』は漢の司馬遷が書いたものである。
前漢の正史である『漢書』は後漢の時代に書かれたものである。
『隋書』は唐が作り『唐書』は宋が作った。
その場合に、書名の上に冠している国号は、すでにこの世に存在しない国である。
しかも『史記』は周が生まれてから滅ぶまで、『漢書』は漢が生まれてから滅ぶまでを書いているが、それぞれ、書かれている時代には、周なり漢なりが存在しないため、周や漢に忖度(そんたく)することなく書いている。
『日本書紀』の場合は現に存在する我が国のことである。
歴代天皇は現にお仕えしている天皇のご先祖であり、それだけでなく、遠い過去において登場する臣下の子孫が執筆時に存在する可能性もあった。
そうすると、さまざまな忖度が起こったであろうと想像する。

しかし、中国の諸書と比較して『日本書紀』の特色は、神代から書かれ、至るところで「神と人とのまじわり」が書かれているということである。
『古事記』も神代から書かれているという点で共通するので、事実を神のおこないとして語っている点において両書は一致する。政治をはじめ、裁判・戦争・日々の生活など、神の導きによって人々が行動していた時代のことであるから、両書にとって、神話から書き始めることが自然だったのである。
中国の史書の場合、滅んだ国の初代はその前王朝の臣下にすぎなかった。
したがって、神話を必要としなかった。

ところで、第二十一代の雄略天皇は「一言主(ひとことぬし)」という神と一日お付き合いしたということが『古事記』にも『日本書紀』にも書いてある。
現代人は、それを、考えられないおかしなことだと思うが、当時は、それほど人びとにとって、神が身近かな存在だったのである。

その雄略天皇のことを『宋書』や『梁書』は「倭王・武」と書いている。
極東アジアを治める将軍にしてくださいと宋に願い出た人物なのだが、その時の「上表文」が『宋書』に引用されている。
そのことから、雄略天皇は、記紀にこれほど荒唐無稽な話があるにもかかわらず、実在するとみてきたのである。

しかも、稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣にエックス線があてられることにより、金象嵌の銘が出現した。
そのなかに「ワカタケル」という雄略天皇の記紀でのお名前が出てきた。
天皇名を「雄略」というような漢字二字で表わすのは、記紀成立後、淡海三船(奈良時代中期)が考案したものであって、参考にならない。
仮名発明後の平安期の『日本書紀』の写本にルビが付されていて「ワカタケ」とある。
しかし、正しくは「ワカタケル」だったのである。
そのことは、この稲荷山鉄剣銘で判明した。
記紀には「ヤマトタケル」「クマソタケル」「イズモタケル」などの名がみられ、「タケル」という古称が知られることからいって「ワカタケル」が正しいのである。
これまでは写本のルビに引っ張られて誤読していた。
また天武天皇の時代に「天皇」号が成立するが、それ以前の呼び名は「大王」だったのである。
これは、それ以前に発見された江田船山古墳(熊本県)出土の鉄刀銘でも知られることであり、当時の一次史料が一致して「大王」とあることにより、確定した。

なお、稲荷山鉄剣銘により、「ワカタケル」大王の時代に、この古墳に葬られた人物の名は「オワケ」の臣であることがわかるとともに、その直系の祖先七代の名が判明した。
第十代の崇神天皇が各地に派遣された将軍四名(四道将軍)のうちの一人「オオ彦」と、その児「タカリノ足尼(すくね)」(「宿祢」の本来の表記は『上宮聖徳法王帝説』や『天寿国繍帳』で知られるように「足尼」)以下六代の人物の名であって、七代の間、それぞれ、歴代の大王に「杖刀人(じょうとうじん)の首」として仕えて「オワケ」に至ったというのである。
大王家は崇神天皇から雄略天皇まで十一名であるが、兄弟相続が三度あって世代交代は八代である。
すると「オワケ」の家の七代というのは穏当であり、このことからこの鉄剣銘で知られる系図は信憑性(しんぴょうせい)が高いのである。
ならば、仕えられてきた大王の八代というのも自然な姿である。

しかも、十一名の大王のなかに、中国の文献によって実在が証明されている五名が含まれている。
『宋書』と『梁書』に使節を送ってきたと記されている第十六代の讃王(仁徳天皇)・第十八代の珍王(反正天皇)・第十九代の済王(允恭天皇)・第二十代の興王(安康天皇)・第二十一代の武王(雄略天皇)である。

しかも両書をよく読んでみると、これら五王の相互の血縁関係が記されている。
そこにみられる「父と子」「兄と弟」などの血縁関係は、記紀とほぼ一致する(短命の第十七代については次に記す)。

ところで『宋書』は、珍を「前王の弟」とし「兄」の名を書いていない。しかし、記紀を参考にすると、兄は「在位五年」で亡くなった「履中天皇」とみられる。
この時代、即ち五世紀は、日本に「暦」がまだない時代である。
したがって、「在位五年」という数は「暦」伝来後の学者による推測である。
六世紀後半もしくは七世紀初頭、日本に「暦」が伝来する。
しかし、概ね年数を引き延ばしている記紀が、わずか「五年」で亡くなったと記すほどであるから、相当「短命」だったと察する。
宋に自らの就任を伝える使者を送る前に亡くなった可能性がある。
そのため『宋書』や『梁書』に「履中天皇」の記事がないのであって、記載のない理由の説明がつくのである。

しかるに、ここに来て、もっと古い、きっと三世紀にあたると思われる第十代崇神天皇の「瑞垣宮(みずがきのみや)」について、考えておかなければならなくなってきた。
このことは専門書にも書いておられるが、それを平易に一般にも分かるように書いておられるのは、平成二十二年七月、大神神社発行の『大美和』に書かれた神戸大学大学院工学研究科教授である黒田龍二氏(専門は建築史)の論文である。

その論文は「初期ヤマト王権中枢施設の形とその意味」という題である。
同論文によると、「瑞垣宮」は『古事記』での記載は「水垣宮」であり、纏向遺跡(桜井市)は、宮殿の周囲が巻向川から引いた水路がめぐらされた「水の垣根」の宮であり、間口四間掛ける奥行四間の宮殿(天皇宮殿と同じものをよこせと要求され、古い天皇宮殿を模しているとみられる「出雲大社」本殿と同じ構造)と、その隣接地の間口三間掛ける奥行二間の神殿(第十一代の垂仁天皇の時代に移築されたと伝える「伊勢神宮」正殿と同じ構造)を中心とする遺跡なのである。
宮中に祀られていた天照大神を皇居外(笠縫邑)に遷したという記録のある崇神天皇六年(実年代で三世紀)以前の姿であり、したがって、この遺跡は、崇神天皇の宮殿であろうとする研究が出されている。

歴史の第一要件は「いつ」であるということを「暦」のない時代までさかのぼらせてはならないのであって、絶対年代の推定は、考古学などの進歩を待って行う必要がある。
「いつ」ということ、絶対年代がわからないということだけで事実を否定してしまうというのは無謀である。
歴史学が今起きているような遺跡の発見を予測できていなかった時代の憶測や希望的観測にすぎなかったと考える。
敬虔に『日本書紀』を読み直すべきなのである。
そういう意味でも同書の「編纂総裁」を勤められた舎人親王と「編纂総裁」の指揮のもと編纂の実務に当たった人びとに深く感謝したい。

さて、仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群・応神天皇陵を含む古市古墳群が世界遺産となった。
しかも、仁徳天皇の時代は、この国にとって、国際化が幕を開ける時代であった。
大陸からやってきて瀬戸内海を航行する使節団の船から見える風景を意識し、応神天皇陵を竣工し、その後、まもなく、つまり仁徳天皇ご生前に仁徳天皇陵に着工したということも言われている。

なお、『日本書紀』全三十巻は、二種の人びとが分担執筆したものであり、そこに用いられた中国語の上手さのレベルにより、α 群、つまり中国語ネイティブの人が執筆した部分と、β 群、つまり純粋日本人が執筆した部分とに二分されるということが明らかになっている。
純粋日本人は、中国語の動詞と目的語の語順が逆になりやすいのである。
正しくは「鎮地祭」というべきなのに「地鎮祭」と目的語を先に言ってしまう。

また難しいのは否定語である。
例えば「非常口」というが「不常口」とはいわない。
「不可能」というが「非可能」とはいわない。
中国語の「非常口」や「不可能」を丸暗記するだけで、なぜなのか理解できていない。
すると「不常口」と書いたり、「非可能」と書いたりする。
そういったことをきちんと書けるのが中国語ネイティブの人である。
そういう中国語学の方から研究したのが森博達氏で、その研究には言語学の最高の賞である金田一賞が与えられている。

たとえば今日、普通に使われている「神道」という語が『日本書紀』に登場する。
しかし「神道」という語は、森博達氏の『日本書紀』の語学研究により知られるα 群(『日本書紀』巻十四~二十一、二十四~二十七)とβ 群(『日本書紀』巻一~十三、二十二~二十三、二十八~二十九)という分類のなかの「α群」に見られる語である。
α 群は正確な中国文で書かれている。
しかしβ 群は倭習(中国文をきちんと書けない人のまちがった癖)が多いのである。
「神道」の語はその中のα 群、つまり中国語ネイティブの人が執筆した部分にしか出てこないのである。
しかも、同じ八世紀の日本人である太安万侶が筆録した『古事記』のなかに一度も出てこない。
その他、当時の日本人が執筆したことが明らかな『風土記』や『万葉集』あるいは仏教の立場から書いた『日本霊異記』などに一度も出てこない。
つまり、日本人が仏教伝来後、仏教と区別するため、それまでの在来の信仰を表わすために発案した語は「神道」ではなく、『古事記』にみられる「本教」「神習」、『日本書紀』にみられる「神教」「徳教」「大道」「古道」 だったのである。
すると、神道は「教」ではなく「道」であると論じる場合は「古道」や「大道」という日本人の発想をもとに考えるべきであり、その場合でも「本教」「神教」「徳教」という捉え方が共存していたこと、また「神習(かんならい)」という捉え方もあったことに留意すべきである。

このような発生段階から今日までの「神社と神道の歴史」について、皆さんと一緒に考えてみよう、というのが、本稿である。

(文・白山芳太郎:皇学館大学名誉教授・文学博士)

 

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