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二條さま 古事記のお話しの2 第二話の4

ここからは質問タイムです。

どうぞ何かご質問ください。

★「水玉を録画してもいいですか?」
はいわかりました。
入ったお水をまず、僕はお花にあげます。
お水を入れます。
持ってきます。
ここまでは普通でいいです。
神様の前に来ましたら、まずこう持って進みます。
さっきも言ったように神様の前に出す時にはもはや、親指と人差し指で出すっていうことですね。
このまま置きます。
右手で蓋を取ります。
左手に持たせかけます。
手前を取ってこのまま置きます。

ありがとうを世界中に
Arigato all over the World

 

親指と人差し指っていうのは、何か意味があるんですか?

すごくいいところに気がついたと思います。
指にはね、各々の役目があるという風に日本人は思っていたようです。
例えば、薬を塗る時はどの指で塗りましょうか?
薬指です。
なぜ薬指なのか?
僕はピアノをやっていたからよくわかるんですが、薬指の独立って一番重要なんです。
薬指が一番力が入らないんです。
そのぐらいの優しい手で、軟膏を塗ってあげるために、これが薬指なんです。
中の指が、実はその次に力がないものです。
我々が、「抵抗していませんよ」という時に一番最初に見せる指でもあります。
三つ指をついた時には、先に中指をつけることになっています。
中指が一番最初につくんです。
要は一番汚れた指だということです。
汚れた指で神様に出さないために、ここで持ちかえるという作業をするということになっています。
この指の扱いというのは、6回目の少し前に、この一個一個の役目をお話しする機会があると思いますので、楽しみにしていて下さい。
だから必ず持ち変えて下さいね。
取る時は汚い手なんだけど、出す時は神様の指にするということです。

 

 

玄関に塩を盛る

★「塩を玄関に置くのは全然どうでもいい話ということだったんですけど、お葬式とかに帰ってきて自分に塩をまくのは、そういう意味での意味はあるんですか?」

「清め塩」と言って、お葬儀に行った時に清めるための塩。
不祝儀を渡すと、ハンカチかもしくは最近はお茶っ葉でございますけど、貰うと小さなお塩が挟まっています。
あれをかけて不祝儀を清めるという。
清める必要ありますか?
考えてみてください、故人を悲しみに行ったのに、そこから祓っちゃっていいのか?という。
これには、実は「大祓」という神事に関わってくる話なんです。
6月の30日、12月の31日に、我々神道家は、「大祓い」というお清めのお祀りをします。
その時に、「塩湯」、いわゆる塩の入ったお湯で周りを清めるんです。
塩の入ったお湯をなぜ使うかというと、塩の入ったお湯を蒔くと草が生えないんです。
なので、それを蒔いたことによって、草がボウボウにならないという、そういうことから来ているんですが、実は何の意味もないんです。
あれは、江戸っ子が、「なんか汚いもん持って来ちゃいけないよ」と言って、パッパッと撒いた。
もちろん、塩を撒くことによって、疫病や、そういったものをやっつけられると経験則で思っていたことは間違いない。
ところが、不祝儀に行って人を悲しんできて、その人のことを忘れないって誓ったのに、玄関先で塩撒いて、これ、綺麗さっぱりそのこと忘れましょうと言ってるんですよ。
私は、本当は何の意味もないと思ってますが、でも人間って、イワシの頭も信心ですからね。
そう思うとそうなります。
神観念が、実は塩には清めるという力が出てきちゃうんです。
お相撲の前に塩をパッと撒きます。
あれは、土俵で怪我をした時に化膿しないために塩を撒くんです。
土俵には神様がいますから、塩は神様の戴き物ですから、神様に食事をあげるという意味もあります。
ですが、実は、怪我をした時に化膿しないためにあそこに塩を撒いてるだけなんです。
決してその場を清めるためじゃないのです。
自分のために撒いてるんです。
そこに宗教が入ったら、「清め塩」になるということです。
だから、宗教を持った人、例えば、それが清まると思ったのだったら、撒くべきです。
ただ、必要はないと僕は思います。
ちなみに、僕はあまり塩を撒きません。
僕は自分の家の神様を守っている者だから、割と「汚れ」ということについて敏感な時期があって、お葬式にあまり出ないようにはしてるんですけれど。
でもこの歳になると、もう結婚式よりも不祝儀ばっかりなんです。
どうしても行かなきゃならないのがありますが、そういった時に、お返しで塩が入っていても家に帰って塩を撒くことはしません。
むしろ、忘れないというか、汚れたままにいます。
汚れを払うために塩を撒くという考え方は、江戸の人の考え方かなということだと思います。
なので、撒いていいか悪いかと言えば、どっちでもいい。
ただ、宗教的意味合いは全くないです。
ましてや相手が仏教のお葬式をやった後、帰ってきて塩を撒いて神道という話ですから、そういうことだと思います。

 

清め砂の砂は何ですか

★「神社とかで売っている「清め砂」、あの砂は何ですか?あれもスーベニアですか?」

スーベニアなんです。
もともとは、四国88カ所という、弘法大師の御縁のある巡礼があったんですが、行けない人がいたんですよ。
どうしたかと言ったら、行った人に88カ所のお砂を持ってきて貰ったんです。
行けない人は、玄関の前にそれを撒いて踏んだら、「88カ所廻った」ということになったんです。
ただ持って来てくれたのは、偉いお寺の偉い土地の偉い砂ですから、ありがたがったんですよ。
それも撒いたらそこが清まったと思っちゃうんですね。
日本人って素敵でしょ。
端的には、夏と春にやります高校生の野球部の大祭典であります甲子園でやる野球大会がございますが、あの人達もですね、一生懸命砂を持って帰って来る。
うちの親戚が、2人甲子園に出たことがあるんですけれども、お土産に小袋に入った甲子園の砂を戴きました。
あれ貰ったらちょっとありがたいんですよ。
だって、我々一般人はあそこのフィールドに入れない訳だから。
ベンチの後ろに自動販売機があって、ちゃんと小袋に入って売ってるんですって。
あそこの全部持って帰っちゃったら無くなっちゃうじゃないですか。
だから、そこは持って行かないで、でも見てるとやっぱりちょっと泣きながら持って帰ってる子もいますよね。
それと変わらないと思います。
そこにあった神聖な砂を持って来たら、清まったと。
もう一つ重要なのが音なんです。
伊勢神宮に行ったことがある方いらっしゃいますか?
宇治橋を渡ると、いきなり歩きづらくなるんです。
玉砂利がひいてあるんです。ジャッ、ジャッ、ジャッ、ジャッ。
神聖さん達が歩き始めますと、もっと早い音がするんです。
清め砂というのが、ちょっと押さえてみると、音がするんです。
この音が、邪種を払ったり、邪を払うという風に平安時代の人が思ったみたいなんです。
あの砂を踏む音が。
これもあって、戴いた砂がありがたくなっていく。
これもスーベニアです。
簡単に申し上げますが、スーベニアです。
でも意味がないという訳ではありません。
そういった意味で、行けない人がそこに行く、もしくは、例えば私どもなんかはアメノコヤネノミコト様というのがうちの氏神なわけですが、春日大社に行くとお札の販売所に清め砂が売っています。
その砂をうちの神棚に置いておくことによって、春日と同じ土が下にあると、思いたいだけ。
でもそのスーベニアは、とてもいいスーベニアだと思います。
バチカンに行っておメダルを買ってくるのと同じです。

 

 

神観念が高いと心が豊かになるという意味がわかりません

心が豊かというのは、想像力が豊かだという風に思って下さい。
これは、想像力というと非常に綺麗な言葉なんですが、妄想力も同じ意味であると思うんですね。
心が豊かだと、状況をいっぱい想像することが出来るんです。
例えば、私が道を歩いていた時に、ただ歩いていたら行き先のことしか考えません。
しかし、豊かな人は、「あ、ここに木があった。」
ちょっと見えないかもしれませんが見て下さい。
このはめ殺しの扉から、電線に雨の雫が乗っている。
「あゝ外に雨が降っているんだな。」
と感じられるかどうか、というのは豊かさの違いだと思います。
そして、豊かであればあるほど、神を出現させる能力があるということなんですよ。
あの水が神様だと思えるということなんです。
豊かでないと、行く先に行って、その場しか行けない、往復でしか考えられない。
例えば、今から仕事に行きましょうと言った時に、通勤は、遅刻をしないようにとにかく頑張ろうとする。
でも、遅刻をしてもいいから周りに気を取られるのが、実は心の豊かさなんです。
しかし、普通は遅刻しちゃいけないと思います。
したがって、周りを見ることはない。
周りを見ないということはどういうことかと言うと、自分がそこに辿り着くということに一生懸命なんですけれども、豊かになると、周りにも人がいたということに気が付くということなんです。
この、周りにも人がいたという風に感じることが、実は神観念に繋がっていきます。
難しいですね。
なぜ難しいかというと、神観念というのは、実は訓練しないと上がっていかないんですよ。
前回いた人達は、毎日毎日水をあげて下さい。
実は、僕がやらせている訓練なんです。
習慣になったという方が、何人もいました。
朝起きて、もうとにかく眠いけど、とりあえず水を汲んで、とりあえず前において、「よろしく。」
もう眠くてしょうがないけど、僕なんか、その後寝ちゃいますけどね。
朝5時に起きて水をあげて、その後すぐ寝る。
二度寝しちゃいますけど、この習慣がだんだんとやらないと気持ち悪くなってくるんですよ。
そうなって来ている人達がいると思うんです。
嫁に行って何10年間ずっと続けてるという方がいますけど、もうやらなきゃならなくなってくるという。
でも、なんでやってるかわかんないけどやらなきゃならない。
で、やらない日があった時に、「あれ?私今日水やったっけ?」と思うようになる。
「やらなきゃ」と言って、ホテルでも水を出して、また清掃の人も、本当に律儀に取っておいてくれる。
「この水、どうしたらいいんだっけ?」と考えるようになる。
この水、飲んじゃうという人もいる。
「神様にあげた水なんだから私も戴いて共食しようよ。」という。
でも、そこに、その人にも神様が出現しちゃっている訳です。
神様にあげた水を共に飲む、という。
訓練すればするほど、実は想像力が上がってくる。
この想像力が神観念だということなので、今に心の豊かさが神観念だということがわかってまいります。

 

転生は神観念?

★「魂の転生もないというか、この感じの捉え方の方になるのかなと思って。転生は神観念になるような気がするのですが、どうですか?」

最近、自分の中でも考え方が変わってきて、とある大学で、もうすぐこと切れるという人の体重を測ったという実験がありました。
これは有名な話ですが、1g、実は減る。
死ぬとそれ、魂が抜けたという考え方があるというね。
これちゃんと数値で出てるんですよね。必ず1gぐらい、もちろん重くなる人もいるらしいんですけど、多分、重くなる人は、点滴を入れていて、それが最後にキュッと入っちゃうみたいなんですね。
軽くなるのは、本当は、死ぬと脱力して、小便、「いばり」と我々は言いますけど、いばりが出るから、1gぐらいなくなるんだと思うけど、それを魂と思うかという問題だと思います。
なのですが、魂の循環というのは、僕はあると思います。
でも、これは「僕が」という言葉をつけさせて頂きたい。
宗教家は、「あります。」と言います。
でも、実は、そのいばりとか、血液とか、そういったものが外に出るから軽くなるのであって、お医者さんはそういう風に思ってらっしゃいますよ。
でも、いばりが本当の魂だとは僕は思いたくない。
なぜかというと、こうやって僕が話してるじゃないですか。
この話してる内容の半分ぐらいは先祖が僕に伝えて来てくれたことを話してる訳です。
この話という「音」を考えて、じゃあどこに収蔵されているんだろう。
もちろん、この中に収蔵されてるに違いないんだけれども、すごく蓄積されたものなわけです。
これは、繋がってるから、こうやって喋ってられるっていうこと。
これ、本になってるわけじゃないんです。
記憶とか、但さんや曾祖父さんの言葉が、ここに残っている。
これ、何なんだろうって。
蔵が、ここに残っている。
何でだろう?
人間というのは、そうやって脳みそに色んなものを備蓄するための機能があるから残ってられるんだろう、ということなんだけれど、かなり古い時のことから入れられていて、それがこう、引き出しで出てくるこのタイミングって、これを「魂」と言うのか、と思った時に、僕はだから、「魂は信じています」という風に思っている。
これが、繋がっているというね。
ここにある、エクトプラなんちゃらじゃなくて、記憶という魂があるということを僕は思っているんです。
だって、決して書かされたわけでもなんでもないんですよ。
但さんや曾祖父さんが、こうやって座って、こうやって話しているのを聞いてただけなんです。
ただちょっとあなた方より記憶力が良かったってだけなんですけど。
「見返すと出来ないんですよね。忘れたとか。」
出来ないです。
人間って、一回見たもの、一回聞いたことは、絶対にどこかに記憶されているんです。
それはまだお若いからわからないかもしれませんけど、歳をとってくると、あれあれ、昔
やったことあるわっていうのは、いくらでも出てくるんです。
行った覚えがある、みたいな。
だから、僕はその状態を、写真のようにガチガチ撮っているんですよ。
ここで会った皆さんの顔を全部こうやって覚えていて、忘れるんですけど、どこかにしまっているんです。
ある時、探してきて検索出来るという。
ちょっとだけあなた方より検索機能が高いだけなんです。
この、中に入っている記憶は、僕は魂だと思っているんです。「僕は」。
間違いなくこれは、例えばあそこに弟子が一人座っております。
あの弟子が、僕が死んだ後、「宗匠がこう言ってた。」と言うに違いないんですよ。
これ、記憶なんだけれど、この記憶というのを魂だと考えたら、魂だと思います。
それは循環するし、残っていくし、繋がっていくし、そして新しく生まれるし、ということになっていって、釈迦もそのことを言っているんではなかろうかと。
あの釈迦というおじさんは何をしようかと言ったら、不老不死を求めたんですよ。
アムリタという不老不死を求めたんです。
釈迦は超人になりたかったんです。
そしてどうするかと言ったら、「記憶」ということにたどり着いたわけです。
記憶は不老不死なんですよ。
「あ、それだ。」と思ったんです。
だから修行してよと。
王様の血を引き継いでる王子様ですよ、あの人。
子供だって沢山いるのに急にそれを全部捨てて、修行に入って何したかと言ったら、「超人化」。
「超人化」の話ですよ。
話がずれましたけど、答えになってるかどうかわかりませんが、魂という考え方は、こういうエクトプラズマではなく、僕は記憶だと思っております。

 

 

「アメノミナカヌシ」

★「アメノミナカヌシ」は神様の名前自体に「アメ」と入っていて、水と、あと水玉となるのは連想出来るんですけど、「タカヒムスヒ」「カミムスヒ」は、なぜその呼び方なんでですか?

じゃあ一回、皆さんで言ってみましょう。
僕と一緒に同じように言ってみて下さい。
僕が「たー」と言ったら、同じ音で「たー」。
「かー」と言ったら、同じ音で「かー」と言ってみて下さい。
後追いで結構です。
「たー」さんはい。
「かー」はい。「むー」はい。「すー」はい。「ひー」はい。
これを一回続けてやってみましょう。
「たーかーむーすーひー」。
これは、お母さんが叫ぶ声なんです。
お父さんが叫ぶ声なんです。
わからないですよね。
当時残っていた音源の音なんですけれども、「タカムスヒ」というのは、子供を親が呼ぶための音。
「カミムスヒ」も同じなんです。
じゃあ何故それが塩と繋がっていくのか。
何故「タカムスヒ」というのが塩なのか、「カミムスヒ」というのが器なのかというのは、日本語の因数分解をちゃんとしていかなくちゃいけなくて、ここでだけだとちょっと話せないぐらいの分量なんです。
いいところに着目されたと思いますが、今僕が言った音程があります。
「たー」という音を覚えておいて頂いて、ずーっと唱えておいて下さい。
あとで、どこかのタイミングでそういう時間を作ってくれたなら、日本語の因数分解もやってみましょう。
以上です。ごめんなさい。ここまでしか思わない。
今は話せると10分じゃちょっと話しづらい「アメノミナカヌシ」はわかりやすかったから説明出来ましたけど、「タカムスヒ」「カミムスヒ」はちょっと難しいんです。
ごめんね。あなたみたいな科学者に、もうちょっと日本語の因数分解をしたいのは山々なんですが。
でもせっかく質問してくれたから一つ言うと、「た」というのは「粉」の意味です。
粉です。粉という意味です。
大きな意味で言うと、「た」ってそういう風にして分解していくと、「タカムスヒ」とい
う言葉になっていきます。
粉なんです。
その繋がりつながりがね、ごめんなさい。
煙に撒いてしまったようで。
でも煙に撒いておりません。
まだ早いという話でした。
素晴らしいいいところに気がつきました。
まだ早いというのは、やるなと言ってるんではなくて、僕がまだ早いって、弟子にもよく言うことがあります。
まだ早いってそれは、教えないと言っているんじゃない。
色んなことが備わって来ないと僕の話の意味が分からないということなんです。
英語の辞書を持たないで、英語の小説を読んだ時に何が書いてあるか分からないっていう状況なんですね。
だから辞書を持った後に読んだ方が分かりやすいよ、という意味で、まだ早いという話です。
もうちょっと待って下さい。
君も同じなんです。
さっきの神観念の話なんですが、訓練すればちゃんと理解出来るようになります。
これは宗教ではありません。

 

塩の漢字に皿の漢字が入っているのは

★「塩の漢字に皿の漢字が入っているのは今回の器の話に関係ありますか?」

はい、その通りでございます。
まずですね、漢字は大陸からやってまいりました。
器という言葉は、器も塩も大陸の言葉じゃないんですよ。
日本語なんです。
日本語なんですが、それを意味する文字が向こうからやってきたから、それで当てただけなんです。
多分、中国の人が「塩」と書いたら「えん」と言ったんだと思います。
でも我々は、あれを「しお」と呼んだ。
器という字は、「き」と読んだと思うんです。
なのだけど、あれを「うつわ」と当てたということなんですね。
これが「かな」なんです。
「我々は、『かな』を発明した」と僕はよく言うんです。
別に発見したのではなく、ああいう文字を「しお」と読むようにした、ということなんです。
これもですね。もう少し経つと分かるようになると思います。
ここにいる人たち、ちょっと質問が先過ぎ、もうちょっと待ってて。
でもそうです。
間違いないです。

 

 

塩はどうして「しお」というのですか?

★「似た質問になるかもしれないですけども、水もそうですけど、塩はどうして「しお」というのですか?」

日本語の因数分解2文字ぐらいだからやっておきましょう。
「し」というのは、思い出して下さい。
赤ちゃんに、やかましい時に、「シッ」ってやらないですか。
「し」という言葉には、音として「止める」という意味があります。
だから、赤ちゃんに教えてもいないくせに「シッ」て言うと黙るんですよ。
音として、日本語の因数分解として、音として、「シッ」て言うのは、「止まりなさい」「ストップ」と言うのと同じです。
「オ」というのは、「先」という意味があります。
止めた先。
水入れました。止めおきました。先に残ったものは何ですか?
塩です。
簡単に言うとです。因数分解で言うと、止めた先に出来たもので、「しお」ということになります。

 

古事記になぜ富士山が出てこないのか

★「古事記をちゃんとまだ読んでないんですけど、今までの話と質問内容が変わってしまうんですが、古事記になぜ富士山が出てこないのかということを教えて下さい。」

古事記を作っていた時代、富士山がまだ日本のものでなかったからです。
日本がどこまでだったんだ、という話なんですよ。
富士山は日本のものでなかったんです。
まだ外国のものだったんです。
富士山は、古事記というものを自分たちの歴史書だと思っている人達の集まりではない場所にあったからなんですよ。
でも、京都から離れて、滋賀で一番高い山、伊吹山に登ると富士山が見える。
ここからは山の上にちょこっとだけ見えるんですよ。
でも、平安時代の人からは、伊吹山に登って伊吹山を越えると、実は東海の方に行くということになっていく。
だから、平安時代はもはや日本の国なので、平安時代のお話には、富士山は、「ふじ」、=「不二(ふし)」がない=一番、二つにない。
もしくは、「不死(ふし)」=死なない、という言葉で沢山出てくるのですが、その前の民族、いわゆる、まだこちらに渡来として渡って来て間もなく、九州を寝じろにしてちょっとずつ東に行ってきた民族にとって、まだ富士山は別の国だったんです。
ただでもね、古事記を深読みしている人は、噴火している山を全て富士と呼んだという風にも言われているので、「コノハナサクヤヒメ」を富士と呼んでいる人もいるから、「あれが富士山だ」という人がいないでもないけど、ちょっと深読みし過ぎですね。
言葉として「富士」という言葉が出て来ないですからね。
なので、古事記学者の考えているところによると、富士山はまだ別の国だということで、我が国の歴史に出て来ないということだと思います。
古事記はこれからどんどん面白くなってきます。
何が面白くなってくるかというと、このお皿から今度はもうちょっと面白いものになってくるんです。
次回は、「ウマシアシカビヒコジノカミ」という神様についてお話しします。
古事記の中でこれほど特異な神がないんです。
特異というのは、僕は縄跳びが得意ですとか、そういうのではなくて、特別に異なると書いて「特異」です。
「ウマシアシカビヒコジノカミ」という、全然日本語っぽくない名前を持った神様が現れてまいります。
前回の話ですと、「ミトコンドリア」ということになります。
「パラサイト」です。
日本の歴史というか、神話の中に、「パラサイト」という考えが出てまいります。
それがどう祀られて、どういう風にお祀りするのかということを、次回お勉強いたしましょう。
宿題は、お水とお塩です。

 

この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.

#ありがとうを世界中に
#ArigatoAllOverTheWorld

 

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