二條さま 古事記のお話しの2 第四話の4
ウマシアシカビヒコジノカミと炭水化物
今日の『ウマシアシカビヒコジノカミ』のお話は複雑ですね。
何が複雑かというと、我々は炭水化物というと米です。
米を取捨して来たという事がとても重要ですから、『ウマシアシカビヒコジノカミ』というのは、弥生の到来なのかという考え方もあります。
これは間違いではなく、弥生の考え方なのだけれど、もはや我々は、縄文時代から弥生的な(お抹茶とお菓子が出た為、話が中断)
世界中で、狩猟の生活をしているというのは、文明から取り残された原始的な生活をしていたんだという事で、少し低く思われがちなのですよ。
だから、早く採集の文化に入っている所の方が進んでいると思われがちなのです。
ありがとうを世界中に
Arigato all over the World
「調饌(ちょうせん)」神様に炊いたご飯をあげること
最後に聞いて頂きたいのは、『ウマシアシカビヒコジノカミ』という神様は、お祀りの中ではどういう扱いなのかという事です。
しかし、現在、我々はお祀りというと、神社などでは、明治時代以降のいわゆる神道指令による政府が決めたお祀りの仕方をしているのです。
お米を洗米にしてあげるという、そういうやり方なのですよ。
でも、思い出して頂きたいのは、ご家庭でご飯を炊いた日、毎日炊かれるわけだけれど、やはり一番最初のご飯は神様、神仏におあげになるでしょう。
「調饌(ちょうせん)」というのですけれど、炊いたご飯をあげているのですよ。
それがやはり祀りなのだと思います。
それから、先程お話した栃、もしくは葛。
こういったものも、その地域に行ったらちゃんとあげる。
お祀りの中で、炭水化物をあげる、もしくは炭水化物自身を火成させるというのがお祀り。
洗米なんかはあげる必要ないと思います。
私は、あれはヨーロッパの影響だと思います。
ライスシャワーの影響だと思いますね。
そして、水を含ませたお米は、その後ふかして食べられますし実は調理しやすいのです。
お餅をは、その日にはつけないのは知ってますか?
ついたことがある方は、ホクホクになったものをついたとか、きっとそういう感じが多いのではないでしょうか。
あれは、前日から頑張っているんですね。
前日からお米を洗って置いておかなくてはいけない。
水を吸わせないとお餅にならないのです。
でも、今の人達は知らないから、サーっと洗ってふかしてすぐさまついてしまう。
だから全然まとまってこない。
お餅にならないのです。
お餅の職人的なお母さんがいたのに、急にその人が亡くなったりすると、翌年のお餅つきは、「あれ?なかなかまとまらないじゃない。」という事もあったりしますよね。
最初にこねたりもしないでついてしまったら、みんなはじけてしまいます。
神様に本来は全部調理して出します
知識としてはそうなのですが、洗米もあり得ると言えばあり得るのですが、私は、あれは西洋的な考え方が入ってしまったのだという風に思います。
本来は、調饌という考え方。
炭水化物を火成したものを神様にあげる。
一番わかりやすいのは、お餅です。
最近は、お祀りでお餅をあげるというと、お正月ぐらいでしょうか?
でも、うちは先日も、乞巧奠(きっこうでん)という七夕のお祀りをするわけですが、「索餅」というお餅を作ります。
とにかく、お祀りの時はお餅です。
「餅まき」といって、お祝い事があると、とにかくお餅を撒いたのです。
撒いたら下に落ちるのが嫌だからと配っている家もありましたけど。
それから、お彼岸といえば必ず「半殺し」といって、女の人がつくので男の人がつくお餅と違い全部潰す事が出来ないので、お炊飯器の中で柔らかくついたものをあんこをかけて、おはぎとかぼた餅にしたり。
お盆では、送りのためのお餅を作ったり。
とにかくお餅。
炭水化物を火成した、料理したものを出す。
これが『ウマシアシカビヒコジノカミ』の祀り方と考えて下さい。
お米をあげるのは、神様に「自分でご飯を炊いて食べてね」と言っているのと同じですから。
考えてみると、乾物もあがっていますから、あれも「神様、お出汁も自分で引いてね」と言っている事ですよね。
お野菜とかお魚もそのまま出すじゃないですか。
「自分で調理してね」と言っているようなものなのですよ。
本来は、全部調理して出します。
伊勢神宮は、毎日全部調理して出します。
故に、『ウマシアシカビヒコジノカミ』は、「調理すること」なのです。
お祀りは、調理という段階から始まっているということ。
調理しないお祀りは、お祀りではない。
だから、みんな中途半端な祀りをしているという事なのです。
絶対にお家のお祀りは、中途半端じゃないけれど、心を込める意味でも感謝の意味でも、素材をあげるのではなく、バルクをあげるのではなく、調理してあげて下さい。
現に、大切なお祀りや有名な神社は、毎日調理されたものをあげていらっしゃいます。
もう一つ言いますと、天照大神様は、ブロッコリーもパプリカもトマトも召し上がります。
どういう事かというと、古い食べ物だけじゃないという事なのです。
神様もどんどん進化していて、新しいお野菜だって何だって召し上がる。
言葉も、「そういうわけじゃ。」なんて言わない。
ちゃんと現代語を話してくれますから。
手前勝手で申し訳ないですけれども、私は自分が頼まれたお祀りの祝詞を半分現代語で話します。
最初と最後だけ大和言葉で、「かけまくもかしこき、いざなぎのおほかみ」というところと、「かしこみかしこみもまをす」というところは大和言葉ですけど、今はその間はちゃんとした日本語で話しています。
神様には通じると思います。
日本は調理で発達して来た
神様が乗り移る人がいますよね。
急に古語で話し始めるとか、私は寒くなります。
「何じゃ〜。」とか言いませんから。
「どうしましたか。」と言うと思います。
それと同じように、調理も、フライパンで作ったもの、電子レンジで作ったものでもOK。
要は、「手を加える」。
言わんや、小麦、米に火成して手を加えるという、この加えたという力が『ウマシアシカビヒコジノカミ』だからなのです。
これこそが、文字がないけれど、文明の種です。
だから、我々がこれだけ、「今日何食べる?」と言う。
朝起きて朝ごはんを食べた後には、母親に「今日夕飯何食べたい?」と聞かれるというね。
「お腹いっぱいだからわかるわけないだろ。」という、この感触って世界中に日本だけですからね。
私もよく外国に行くわけではないし、最近の外国がどんな風かはわからないですが、私が留学していた時に本当によく言われた事は、「日本人は四六時中食べることしか考えていない」、すぐ「何食べる?」と聞くという事です。
「何だっていいよ、食べるものは。」と言うのです。
いや、我々にとって、何だっていい食べ物なんてあります?ないでしょう。
せめて、今日はご飯とか、今日はパスタだとか、今日はうどんとか、食に気を使わない人だってそのぐらいの事は考えますから。
言わんや、我々は食べる事しか考えない民族だけど、そういう文明なのです。
だから、世界中の文明とは全然違います。
文字で発達して来たのではなくて、調理で発達して来たのです。
これは、夷狄の襲来ではない。
始皇帝が攻めて来たから文明が開いたのではない。
我々が取捨選択した文明なのです。
ここが世界中と全く違うのです。
ありがとうございます
ローマの時代は、ローマという国が世界中を席巻してローマの文明を押し付けていって広がっていったものなのですよ。
日本の場合は、押し付けられた文明ではなくて、自分達で考えちゃったわけです。
米を炊飯するなんていう考え方は世界中に日本だけです。
日本の文明で、これを文明と言わないで他に何の文明がありますか?
ないと思います。
『ウマシアシカビヒコジノカミ』とは、すなわち我々の文明の種だったという事です。
ご自身でもお水の作業をして貰っていますが、どうか、お祀りの時、たまには自分で炊いたお米を神様にあげてみましょう。
もしくは、自分で作ったお料理をあげてみる。
この、お料理をするという作業が、実は祭事であるという事なのです。
『ウマシアシカビヒコジノカミ』のお話はこれで終わります。
次回は『アメトコタチ』のお話になります。
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
(注:二條さまの写真は2022年9月の写真です)
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
#ありがとうを世界中に
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