二條さま 伊勢あめつちの館でのお話し
古事記、日本書紀は有害?
我々日本人が持っている古事記というお話は、最近は口頭無形な「文学」という扱いです。
もちろん小学校や中学校ではこれはやってはけないという事ではないのですが。
実は、私は三十数年前に高等学校の教員でした。
学校を卒業し、大学院に行きながら神奈川県立高校の音楽の教鞭をとっておりました。
卒業してすぐ神奈川県の教職員組合というものに入りなさいということになりました。
そして、先輩の先生方に、
「二條さんはそういうお家の方だから、もしかすると神話とか、そういったものを子供に話しがちになるかもしれないけど、是非ともやめて下さい。絶対にやめて下さい。私ども教職員組合は古事記、日本書紀を認めておりません。子供にそういったものを話すのは有害です。」
という風に言われました。
私がその話を聞いたのが22歳の時でした。
すごく変だなと思い、
「なにゆえに、アメリカの文学やロシアの文学やフランスの文学や、そういったものは堂々と話していいというのに、日本で作られて千数百年も経っているものを子供達に話してはいけないのですか。」
と聞きますと、
「あれは大変に右翼的で、かつ戦場的です。子供には話しても何の役得も、意味もありません。」
という答えが返って来ました。
私は性教育だって話すべきだと思ったし、自分が同性愛者であるということも平気で話したかった方ですので、伝統を守って下さる学校の教員の先生方の集まりが、「子供に話してはいけない事があります」なんて、古事記や日本書紀がむしろ子供に害があるなどという事を組合長の先生に言われた時に激しく反発いたしました。
私は、神奈川県の教職員組合の組合長さんに、
「すみません。申し訳ないですが、私はその組合というのに入れません。健康保険は国民保険で結構です。」
という事で、組合には入りませんでした。
学校では、古事記や日本書紀は、今でも語られることはありません。
この古事記や日本書紀は、今や、お母さんやご家族やご親戚、そういった方しか子供達に話すことが出来ない話になっているのです。
ありがとうを世界中に
Arigato all over the World
小さな声は神様の声
古事記に一番最初に出てくる神様、「アメノミナカヌシノカミ」は我々黄色人種という事です。
神様ではないのです。
黄色人種が、このユーラシア大陸の一番はずれまでやって来た訳です。
そしてふーっと散っていったという風に、ただそう書いてあるだけなのです。
聖書の方がよっぽど危ないです。
まず「光あれ」なんていう、エレメンツまで掌握するような人が一番最初に出てくる、そんな話じゃないのです。
「アメノミナカヌシ」という一番最初の大きな神様が、ポーンと出てきたんだけど、すぐぱーっといなくなった。
ぱーっといなくなったのではない。
色んな所に入って行ったのです。
我々黄色人種は、色々な所に散って行ったのです。
どこまで散ったかというと、アメリカ大陸まで散りました。
そうやって、テンシャン山脈、タクラマカン砂漠を越えて来れたのは、我々黄色い肌を持っていた人達だけだったのです。
そしてそれが、エッジオブアイランドの、いわゆる極東まで来て、ここから先、太平洋に行けない、そうなった時に、わーっと散ったのです。
ただそれだけなのです。
ただそれだけが書いてあるだけなのに、それが右翼的だ、戦場的だと、そういう風に話すのです。
声が大きい人や、物事を大きく言う人は、この時代から後、少し気をつけて見てみましょう。
皆を不安にし、恐怖に駆り立て、そして疑心暗鬼にした時に、その後出てくるのは、声の大きい人なのです。
声の大きい人の後について行くと、そのベクトルが正しいベクトルであれば何の問題もないです。
どれが正しいかという事も問題ですが、むしろ、小さな声の人に耳を傾けましょう。
それが実は、神様の声という事になります。
大きな声は、実は、人を率いていきます。
まとまるの相あり
昨年、私共の新嘗祭のお祭りで、最後に卦(け)が出ました。
「作は豊(ほう)、国まとまるの相(そう)あり。」
「作は豊」と言うのですから、作物は豊かに実るのではないか。
「まとまるの相あり」。
ここが実は、うちから出ていく卦(け)というのは、私が斟酌して話してはいけないことになっています。
こうして私から話を聞いた人が、自分でどういう意味かを斟酌するという事なのですが、私は、少し怖い思いが致しました。
何が怖いかというと、「まとまる」という部分。
声の大きい人のところにまとまるのだなという事なのです。
しかし、神様は見抜いていらっしゃいます。
日本人は、今年まとまっていく。
どんな方向にまとまっていくのでしょう。
思えばとても怖いことです。
どうぞ皆さん、何にまとまるのか、どんな声にまとまるのか、どんな物事にまとまるのかという事を、よくご自分で斟酌されて、まとまって頂きたいと思います。
みなさんアメノミナカヌシ
「アメノミナカヌシ」という神様は、ぽーっと出て、さーっと皆の中に入っていく。
我々全部が、「アメノミナカヌシ」という事なのです。
黄色い肌を持っている者。
私は、実は黄色い肌だけではなくて、この、やまとの国という所で日本語を介している人は皆、「アメノミナカヌシ」だと思っています。
日本語をちゃんと喋れる人。
私は、日本国民の定義は、「日本語を母国語として喋る人」が日本国民だと思っています。だから、そこに肌の色とかは、あまり関係ありません。
もちろん、セクシャリティも関係ありません。
日本国民は全て、「アメノミナカヌシ」のことだという事になります。
神だという事になります。
ここを皆さんに覚えておいて頂きたいのです。
日本国民の中には、思い切り「天皇なんか死んでしまえ」と言う人だっています。
「天皇様!」という人もいます。
この振れ幅が大きければ大きい程、その国は豊かです。
そのように、「死んでしまえ。」と言う人もいれば、「天皇陛下万歳」と言う人もいる。
この振れ幅がうんとある国が一番平和なのですよ。
ところが、最近は、この振れ幅がどんどん狭まってきました。
見ていると息苦しいのです。
ありがとうございます
私達は、70年かけて、何を言っても良い国にしてきたのです。
これは、我々が勝ち得た振り幅だったのです。
ところが、新型コロナウィルスのおかげで、自由を大きく語る事がはばかられる時代に、少しなってまいりました。
こうして人が集まる事を「どういうことなの?」とこの町内でも言われているそうです。
神社で宮司さんが大きい声で怒ったのを聞いたという話を聞きました。
こんな時に都会の人に来られたら困りますよと、それもありです。
「いや、でも行きたいんです。」と、こうやって来て下さるのもありです。
宮司様は、かく言いながら皆様のお顔を見に来て下さったという事で、やはり、あの方自身はとても振り幅がある方だという事がわかります。
寛容と許容があるという事なのです。
これこそが神です。
寛容と許容が神。
神様は、目の前、天井におわしません。
ここにおわします。
私達と同じものを見ています。
神社に行って、手を打って前に神様にお願いしても、何も叶えてくれません。
一つも叶えてくれません。
交通安全だって、家内安全だって、良縁だって、金運上昇であろうが、開運であろうが、何一つ叶えてくれません。
私は神主ですが、はっきり言います。
何一つ叶えてくれません。
神様は、ここにおわしてくださいます。
我々一人一人が持っている氏神、生まれた所から連れて来られた産土、そして、住んでいる所の鎮守、この三柱の神様が、ずっと私達と同じ視線で物事を見て下さっているのです。
たった一人でも、自分は一人だ、一人ぼっちだ、と思っても、実は同じ目線で神様が一緒のものを見てくれているという事を忘れないで下さい。
孤独なんか、そうなったらあり得ません。
日本の神様は何もしてくれないけれど、ずっと一緒に我々を見て見守って下さっている。
そういう神様なのです。
悪い事をしてもいいです。
たまにはおいたもしましょう。
いたずらをしない人は、残念ながら、つまらない。
覚えておいて下さい。
大いにいたずらして下さい。
それは、神様がご覧になって、神様も一緒にいたずらするという事です。
神遊びをされます。
どうか皆様、声の大きい人に急について行かない。
そして、神様は目の前におわさず、ここにおわす。
小さな声に耳を傾けて下さい。
本日、古事記の話をダイジェストでお話しするにあたって、古事記とは、そういう事がトピックで書かれてある本であり、決して、右翼や左翼がガタガタするような本ではない、という事をご紹介して、私のお話しにさせて頂きます。
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
#ありがとうを世界中に
#ArigatoAllOverTheWorld