文化と文明
これからは何よりも文化が大切
こんにちは。
先日、素敵な方のお話で「文化と文明、これからは何よりも文化が大切。」と。
文化と文明、違いが分かりますか?
これからの世で、この文化と文明の違い、そして何を大切にしていくのか、改めて考えないといけない時でしょうね。
戦後からでしょうか、文明最優先で時が過ぎ大切なことを置き去りにしてきてしまった気がします。
改めてこれから大切なことを考えていきたいと思います。
ありがとうを世界中に
Arigato all over the World
司馬遼太郎さんのお話し
私の大好きな司馬遼太郎さんのお力を借りて説明を。
「アメリカ素描」より。
人間は群れてしか生存できない。
その集団を支えているものが、文明とと文化である。
いずれも暮らしを秩序づけ、かつ安らげている。
ここで、定義を設けておきたい。
文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので他に及ぼしがたい。
つまりは普遍的でない。
例えば青信号で人や車は進み、赤で停止する。
この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでもいる。
普遍的という意味で言えば交通信号は文明である。
逆に文化とは、日本でいうと婦人がふすまをあけるとき両ひざをつき両手であけるようなものである。
立ってあけてもいいという合理主義はここでは成立しえない。
不合理さこそ文化の発光物質なのである。
同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をもたらす。
ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。
だからこそ文化であるといえる。
日本は不合理な習慣でつまっている
以上の事からいうと、日本などは精神の安らぎのための不合理な習慣でつまっている。
年末だけでも年賀状を書き、お歳暮を送り、忘年会で飲み、紅白歌合戦を見、年越しそばをすすり、除夜の鐘をきき、気の早い人はそのまま初詣に出かける。
そういう文化の蓄積とその共有が、自然とクニの形をとったのが地上のほとんどの国の場合である。
日本の場合、そのアンコという文化の上に、マンジュウの皮のように文明という法秩序がある。
さすが、司馬遼太郎さん。
ありがとうございます
最後の、「日本の場合、そのアンコという文化の上に、マンジュウの皮のように文明という法秩序がある。」がすべてですね。
でも、このぶ厚くまるいアンコが、今の時代薄っぺらく中身の少ない、いや、中身のないマンジュウになってきてるのではないでしょうか。
アンコガないマンジュウなんて、価値が一つもないです。
何十年、何百年と続いてきた文化を今一度私たちが大事にしないといけないですね。
ん、何が文化かって。
だから不合理であって美しいもの。
探してみてください。
周りにいっぱいありますよ。
何々?探してるけど見つからないって?
よーく見てみてください。
まだまだ素敵な日本の文化が残ってますよ。
でも、このままだとなくなってしまうかもしれませんがね。
私はこれからの子供たちに、この素敵な日本の文化を残していきたいと思います。
それも今までのように「こうでなければいけない」ではなく、楽しんでもらえるようになっていけないかなと思ってます。
これからの私の生きがいはこれです!
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
日本の不合理な文化を楽しみましょうね。
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
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