水と信仰 現代人たる日本人が水に無関心
日本と水
こんにちは。
「日本人は、水に対して無関心」と評される(たとえば、イザヤ・ペンダサン「ユダヤ人と日本人」)。
なるほど、世界の諸民族からみると、そうであろう。
たとえば、私ども日本人は、生水をほとんどためらうことなく飲む。
水道の普及以前にさかのぼってみても、湧水や流水をそのまま飲んできた。
世界ではありえないこと、といわざるえおえないのだ。
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水のカミ
もちろん、それは、「山島」というべき地形と地質によるものである。
その恵みによって、日本人は、代々飲料水に困らないしあわせを共有してきたのである。
そのしあわせのもとで、「水のカミ」を祀ってもきた。
そこでは、水が濁ることなく枯れることなく、と祈念したきたのである。
そのところにおいて、私ども日本人は、けっして水に無関心であったわけではない。
ただ、時代とともに水のカミに対して意識が薄らいできた。
とくに、水道が普及してからは、都鄙(とひ:都と田舎)をとわずその傾向が強まってきた現代にいたっているのだ。
現代人たる日本人が水に無関心なのである。
水神
水のカミは、全国的にみると、神社に鎮座ましましているのではない。
奈良盆地で顕著な水分神社のような例もあるが、多くは特定の社をもたないのだ。
それをもってしても、神社神道の成立以前からの原始的なアミニズム(自然信仰)の伝統といえるだろう。
一般には、「水神(すいじん)」という。
湧水や井戸、池や用水などの水の霊を総称してた呼称である。
したがって、それぞれの水際のあたりに幣(みてぐら)や榊をたてて水神を祀ったとする事例が多い。
小さな社や祠をつくって祀っているところもある。
行事日やその内容も、一定ではない。
ところによっては、渇水期の夏場。
ところによっては、春の雪どけのころ。
氏神神社の祭礼時に神札(おふだ)を授かり、それを祀るところもある。
水のカミは、五穀豊穣をもたらす精霊ともされる。
そこでは、田のカミと集合もみられた。
とくに、稲作は水利を得ないことにははじまらない。
それは、山のカミのもとでの習合である、山のカミが水のカミにもなり田のカミにもなる、とされてきたのである。
田ごしらえをしたところで、山から榊や桜などの枝を手折ってきて、苗代田や一番田(田植えをいちばんはじめにする田などの水口に立てる。
それを田の神まつりとか水口まつり、といった。
経済の高度成長期、耕運機が普及するまでは各地でみられた習俗である。
(文:Clasism2017年夏号:神崎宣武著)
ありがとうございます
あたりまえにある水。
あたりまえすぎて誰もが感謝しなくなった水。
古来より、世界中で水を求めて争いがおこってきました。
人間の体の約60%は水でできています。
水がなければ、人間はもちろん、ほとんどの生き物が生きていけません。
ことほどさように水は大切なのです。
今改めて自然と共に、水のありがたさ、幸せを感じなければならないですね。
本当にありがたいことです。
今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
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