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明治維新の先がけ-光格天皇の御実績(二)

 

 

こんにちは。

 

昨日は今上陛下のご譲位のお話しから最後にご譲位、上皇となられた光格天皇のお話しをしました。

今日は光格天皇が上皇になられたときの儀式のお話しを中心にすすめていきます。

 

光格天皇が天明七(一七八七)年の大飢饉のときの幕府への対応がそれまでにない重大な転機となりました。

これ以降、幕府は朝廷の意向・希望を尊重するようになりました。

天明八年の京都大火で御所が消失すると、老中・松平定信自ら上京し、平安朝風の立派な御所(上皇の仙洞御所も)を再建しています、

このころから朝廷の権威が高まり、幕末維新の先がけとなりました。

また、寛政十一(一七九九)年に至っても、光格天皇(二十九歳)は後桜町上皇(六十歳)の教訓を忠実に守ろうと努めておられました。

京都御所の東山御文庫に現存する長文の宸翰(しんかん)(天皇から上皇への返書)に、次のごとく記されています。

(上皇)仰せの通り、身の欲なく天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候事、人君たる者の第一のおしへ、・・・忝(かあじけな)く存じまらせ

候。

・・・正直・仁恵・誠信、第一の事にて候。

・・・御厚意御念比(ねんごろ)の御書付(天皇の手紙)、実に

・・・有りがたく存じまいらせ候。

光格天皇は幼いときに支系から擁立されて、何とか至らない点もあると自覚されており、三十歳近くなっても上皇の訓戒を大切にしておられたことがわかります。

 


桜町殿(光格上皇の御所)への「行構図」(国立公文書館デジタルアーカイブ公開)

 

盛大な譲位の行列と諡号の復活

 

光格天皇は在位三十八年の間に、欣子内親王を皇后に立て、その間に二男一女を儲けられましたが、いずれも夭逝(ようせい)されました。

そこで、側室・勧修寺婧子(ただこ)との間に生まれた恵仁(あやひと)親王を欣子皇后の”実子”(養子)として、文化十四(一八一七)年、その仁孝天皇に譲位されました。

その譲位儀式は、極めて盛大に行われました。

それを立証する記録や絵巻きが数多く現存しています。

上皇は三月二十二日、内裏から仙洞御所の桜町殿へ遷られましたが、数百名にのぼる行列を描いた「桜町殿行幸図」(彩色二巻(国立公文書館所蔵)はWEB公開されています。

また、その全容を記録で考証した拙稿(せっこう)が「蓺林(げいりん)」四月号(蓺林会の機関誌)に掲載されたので、関心のある方はご覧ください。

この光格天皇は平安時代以来の朝儀復興に努め、在位中に賀茂社・石清水社の臨時祭(勅祭)を再興されていらっしゃいます。

また、天皇の諡号(贈り名)は、その聖徳を讃えて奉(たてまつ)るべきところ、平安前期から千年近く中断していた(御生前の御所名などを追号され、天皇ではなく「院」と称する)が、それを改めて本来の称号に復興したいと願っておられました。

そこで、天保十一(一八四〇)年、七十歳で崩御されると、仁孝天皇が「光格天皇」という諡号(しごう)を奉っておられます。

名実ともに、皇室本来の在り方が回復されつつあったのであr。

 

ありがとうございます。

この度の行幸はいかようになるのでしょうか。

私のかすかな願いは、京都御所にお戻りいただき、光格上皇と同じように仙洞御所へ行幸願いたいと思っています。

やはり京都が心休まる本御殿ですから。

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

これからも宜しくお願いいたします。

 

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