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日本の近代史はまさに「西洋かぶれ」の時代、いやいや千五百年の歴史があります


(写真:JAPONisme2018年夏号 vol18より  本当に素敵なお二人です 左:大谷暢順さん 右:山折哲雄さん)

 

JAPONisme

こんにちは。

ジャポニズム振興会が発行されている季刊誌「JAPONisme」。

夏号で、本願寺法王 大谷暢順さんと、宗教学者の山折哲雄さんの蓮如さんに関する対談がありました。

その中に素敵なお話がありましたので、みなさんと。

 

何事も善か悪か

 

前略

—–ところで、お話のはじめの方で伺った、社会を破壊へと向かわせている、善悪を単純に切り分ける理性編重というか、考え方がとても気になったのですが。

大谷 ああ、それはね、心や感情を無視して理性ばかりを重んじる考え方。
合理主義、実証主義。
そういうところから民主主義も生まれたわけだが、政治も、経済も、教育も、すべてそういう方向でシステム化され、それに合うものは善で、そうでないものは悪なんだと。
例えば戦前のものは、日本の風俗習慣に至るまですべて間違いであった、古いと。
日常会話でも、「君、これ古いやないか」というと、それはつまり悪いということ。
そういう善悪感のもとで、日本の美しい家庭制度も全部悪だと。
そんなふうに何事も善か悪かと言って物事を区別するのが、今の世の中の過ちの元だと私は思っているんだが、それをきちんと話すには、如何せん紙面が足りない。

山折 それについては私も思うところがあります。
善悪というのは単なる二元論では捉えられないよ、ということは、ヨーロッパ近代の厚みの前で神経衰弱になった夏目漱石も繰り返し言っていることですね。
本当に我々はヨーロッパの近代的な知性を乗り越えることができたのか、その限界を見極めることができたのかというと、出来ていないと思いますよ。
明治百五十年の日本の近代史はまさに「西洋かぶれ」の時代だったわけですからね。
しかしよく考えれば我々には我々自身の千五百年の歴史があるわけでね。
これを検討することなしに、輸入したものだけで事柄を処理しようとしても、それは仕切れるものじゃない。
その矛盾が今、いろんなところに出始めている。

大谷 個人の自由のために作られた近代社会というものが、結局個人を束縛、拘束する形に変わってしまっている。
私はそう考えています。
蓮如さんはあの時代に、郷や惣村で、「物申せば、心底もきこえ、また、人にもなをさるゝなり」と人に語り合うことを勧めて自覚を促された。
そしてそれは日々生きるに精一杯だった人々に、人として生きる喜びと感動、勇気を与えて、そこに仏法の花が開いた。
今の時代は言論の自由が叫ばれているけれど、それが行使されていますか。
それどころか、五、六人寄ったら宗教と政治の話はやめておきましょうねと先ず言う。
自らの言論の自由を放棄した。
ああいうのが、私、わからんのです。
我々が学生のころなんかはもっと自由でした。

山折 それを突き詰めていくと、結局日本人とは、いったいどういう価値観を持っている民族なのか、それを解っていないと。
価値観の中心が見えないことが大きい、という話になっていくけど、仰る通り紙面が足りない

大谷 ではそれは次の機会へ送って。
そこでまた、大いに言論の自由を行使しましょう。

山折 いや、ぜひ。
望むところです。

 

ありがとうございます。

素敵なお二人のお話し。

二人の対談を一般公開してもらいたいですね。

その日は、時間制限なし、づーっと対談を聞いていたいです。

そして、日本人の価値観についてゆっくりと伺いたいです。

善か悪か、二つに一つの世の中だから争いが絶えないのでしょうね。

日本には「きわ」があります。

どちらも大切にしてきているのでしょうね。

全ての事には、表と裏、陰と陽、真反対のように見えますが、見方を変えれば同じかもしれません。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

「きわ」を大切にする日本人が大好きです。

 

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