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「神社と神道の歴史」第7回 著:白山芳太郎

神社と神道の歴史(第7回) 著:白山芳太郎

 

神社は、もともと常設の御殿を持たない宗教施設であった。
神社が常設の御殿を持つようになるのは6世紀になってからである。
寺院が常設の御殿を持つ施設として伝わったことの影響と思われる。
常設の御殿を持つようになる前、神社は「屋代(やしろ)」という語があるように、祭りの期間のみ「屋(や)を建てるべき場所」(「糊(のり)をつけるべき場所」を糊代(のりしろ)、「苗を植えるべき場所」を苗代(なわしろ)というように「屋を建てるべき場所」が「屋代(やしろ)」)に「屋」を建てて祭りを行った。
祭りが終わると、神にもとの居場所(「甘南備(かんなび)」と言われる山や森や滝)へ戻っていただく。

春日若宮の「おん祭り」では、毎年10月1日に「縄棟(なわむね)祭(さい)」という着工の祭りがあって「お仮殿(かりどの)」を建てる。
柱は後述の大嘗祭における悠紀殿・主基殿と同じで、皮を削らない「黒木(くろき)」のままの柱である。
この「お仮殿」が「屋代」の姿を今に伝えるものである。

 


(お仮殿 令和2年12月1日 葉室頼廣氏撮影)

 

「お仮殿」が竣工すると、12月17日午前0時に神体が若宮を出発され、「お仮殿」に移られる。
神体が「お仮殿」に到着されると、神前で「御旅所祭(おたびしょさい)」が行われる。
祭りが終ると、12月18日午前0時、神体は若宮に戻られる。
そして「お仮殿」を撤去し、しめ縄を張って置く。
「屋代」とは、本来、このような「屋」を建てるべき場所を表わす語であった。
後に、その場所に建てられた「屋」をも表わす語となり、今にいたる。

 

ところで、今日、多くの神社は、常設の御殿を持っているので「屋代(やしろ)」は「御屋(みや)」となっている。
それなのに、もとの「屋代」という語で「御屋」のことを呼んでいる。
一方「宮(御屋)に参る」という言葉がある。
拝む対象は「宮(御屋)」の中にいらっしゃる「神」であり「屋」を拝むわけではない。
ところが、建物を拝むという意味としての「御屋に参る」という語が用いられる。
なぜだろう。

その理由を考えてみると、例えば、時代劇で大名のことを「殿(との)」という。
「殿」とは「御殿(ごてん)」のことである。
「御殿」という「建物名」を用いることによってお仕えしている大名への敬意を表す。
大名のことを名指ししないのが敬語なのである。
人を実名で呼ばず屋号で読んだりするのも「屋(や)」即ち「家」の名で呼んで直接、実名を呼ばないのが、敬語なのである。

「神」は常設の「屋」で祀ってあるのだから「建物名」で呼ぶとすれば「御屋(みや)」となる。
「神」に対しては「御屋」と呼ぶ一方で「建物」に対しては「御屋」という語を用いないで「御屋」になる前の「屋代」という語を用いている。
目に見える姿は「御屋」であるのに「宮」という語は、神への敬語であるため、用いない。
そして、かつて呼んでいた「屋代」という語を用いる。
そのように直接的に言わないのが、神や神社への敬語なのである。

 

春日若宮の「お仮殿」は神社が「屋代」であった時代の姿を伝えていると思われるが、これと似ているのが、天皇御即位の時の「大嘗祭(だいじょうさい)」の時に建てられる悠(ゆ)紀(き)殿(でん)と主基殿(すきでん)である。
悠紀殿は「ゆ」が「斎(い)む」ということを表す語であって「聖なる御殿」の意である。
「き」は神酒(みき)の酒(き)にあたるとされ「斎(ゆ)酒(き)」であり、聖なる神酒という意味となる。
それを献るということから大嘗祭のとき新穀や神酒を献上する第一の御殿のことを悠紀殿と呼ぶ。

主基殿の「主基」とは「次(すき)」ということを表す語であって「二次的な」と言う意味である。
「悠紀国」の斎田が不作であった場合など、もしもに備えて建てる予備的な御殿である。
「悠紀国」の斎田で採れた新穀は東の御殿である「悠紀殿」で神饌として供えられ、「主基国」の斎田で採れた新穀は西の御殿である「主基殿」で神饌として供えられる。
「悠紀国」と「主基国」は卜(うらな)いによって定められる。
ただし平安中期ごろより「悠紀国」は近江国に固定し「主基国」は丹波国と備中国の交互となり、それぞれ郡のみ卜った。
柱に黒木を用い、屋根は茅葺(かやぶ)き(令和のみ板葺き)で、上に千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)を載せる。

 


(大嘗宮 瀬戸一樹氏撮影)

 

この悠紀殿と主基殿は、祭典が終ると、他の施設として用いることなく撤去する。
春日おん祭りの「お仮殿」と同じであって「屋代」(神専用の施設と考えて祭典終了後、撤去する)の考え方が、今に伝わっている。
後に「御屋」と「屋代」を、それぞれ「宮」と「社」という漢語で表記するようになり、神社のランクを表わす語のようになるが、「屋代」と「御屋」は、もともとそのような意味ではなかった。
このように、悠紀殿・主基殿および春日おん祭りの「お仮殿」は、神社が古く「屋代」という状況であったことを今に伝えている。
さらに古い時代は「屋」を持つことさえもなかった。
祭祀は「磐座(いわくら)」の上や岩陰で行われた。

 


(大津市日吉大社の磐座 白山芳太郎撮影)

 

その詳細は、宗像(むなかた)「沖ノ島」の祭祀遺跡の考古学的調査によって明らかとなった。
その報告書によると、4世紀後半~5世紀前半における「沖ノ島」祭祀は「岩上(がんじょう)祭祀」で、磐座の上に石で方形に囲った祭壇が設けられ、そこで行った。
5世紀後半になると「ひさし」のように突き出た巨岩の陰での「岩陰(いわかげ)祭祀」となる。
7世紀後半になると「半岩陰(はんいわかげ)・半露天(はんろてん)祭祀」となる。
祭祀に使用された器や道具、ならびに供えられた神饌は神の専有物とみなされ、その場に置いておく。
「岩陰」に祭りを行う場所がなくなって、岩陰から少し離れた、しかし磐座を意識した半岩陰・半露天で祭った。
そこも満杯になった8世紀になると巨岩からやや離れた露天の平坦地での「露天(ろてん)祭祀」となる。

 


(岩上(がんじょう)祭祀や岩陰(いわかげ)祭祀遺跡が出土した「沖ノ島」 白山芳太郎撮影)

 

大神(おおみわ)神社(奈良県)や明治以前の石上(いそのかみ)神宮(奈良県)は「沖ノ島」祭祀で言う「露天祭祀」を今日まで(石上神宮の場合は明治まで)行っている。
祭典が終了すると、供えられた品は「禁足地」に埋められた。

 


(大神神社拝殿 谷口勝彦氏撮影)

 

大神神社には「奥つ磐座」「中つ磐座」「辺つ磐座」などの「磐座」がある。
現在、それらと無関係なところ(「沖ノ島」祭祀でいう「露天祭祀」)で祭祀が行われている。
「本殿」がなく「三つ鳥居(どりい)」前方の「禁足地」を祭祀対象にしている。
三つ鳥居(どりい)(明神(みょうじん)型の鳥居3基を1列に合体した鳥居)の前にスプリンクラー(三輪山は雷による山火事が多い)を埋める工事を行ったところ、その地から「子持勾玉(こもちまがたま)」などの祭祀遺物が出土し、沖ノ島の露天祭祀と同じであることが知られる。

 

石上(いそのかみ)神宮も明治まで本殿がなかった。
現在の本殿が建っているところに「禁足地」があって、そこに神体の「韴霊(ふつのみたま)」という剣が埋められていると伝えられてきた。
そのような「禁足地」を祭祀対象とする神社であった。
明治7年(1874)宮司の菅政友(かんまさとも)は、国の許可を得て発掘調査を行った。
「禁足地」から、神体の剣と、勾玉(まがたま)や菅玉(すがたま)などの祭祀遺物が出土した。
埋め戻すことは防犯上よくないと判断し、本殿を建てて祀ることとなった。

「韴霊(ふつのみたま)」とは、記紀によると天孫降臨(てんそんこうりん)に先立って武甕槌(たけみかつちの)命が国譲りの交渉に向かった際に帯びていた剣と伝える。
その後、神武(じんむ)東征(とうせい)の折、武甕槌が高倉下(たかくらじ)の倉の屋根に穴をあけて投げ入れた(それを高倉下の夢のなかで知らせ、苦戦している神武天皇を助けた)とされる剣である。
それを(第10代)崇神(すじん)天皇の宮(磯城(しきの)瑞垣(みずがきの)宮)から、崇神(すじん)天皇7年(実年代は3世紀か)に現在地に移して埋めたとするのが、石上(いそのかみ)神宮である。
同社の御子(みこ)神を祀る出雲建雄(いずもたけるお)神社は、現在も本殿を持たない神社であって、拝殿(国宝)が「割り拝殿」という形式である。
「割り拝殿」とは、禁足地の正面に敬意を表して土間のままにされている拝殿である。
祭典の参加者は、拝殿の左右に着座し、拝む時は土間に降りて拝む。
このような本殿のない神社や、拝殿が「割り拝殿」の神社が各地にみられる。

 

たとえば埼玉県金鑽(かなさな)神社は、拝殿前方の御室(みむろ)ヶ獄を神体として祀り、本殿がない。
長野県上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社は、今は本殿があるが、本殿の中に内殿(ないでん)(内殿は旧本殿で、明治に覆屋(おおいや)として今の本殿が建って現在の姿となったが、内殿は今も土間のままで、内殿の土間は池の中の「島」を意味する)があって「島」を神体とする神社である。
熊野那智大社別宮(飛龍(ひろう)神社)は「滝」を神体とする神社である。
毎年7月14日の例大祭(那智の火祭り)の時に本殿に祀られている神霊が神輿(しんよ)(「扇神輿(おうぎしんよ)」と称される)に遷され、滝まで戻られる。

 


(熊野那智大社の火祭り 白山芳太郎撮影)

 


(熊野那智大社例の神輿渡御 白山芳太郎撮影)

 

拝殿が「割り拝殿」になっている神社は、他に京都市鞍馬(くらま)寺にある由岐(ゆき)神社(国の重要文化財)、京都市伏見区の藤森(ふじのもり)神社、同じく伏見区の御香宮(ごこうぐう)などの例があげられる。
また大神(おおみわ)神社の拝殿(国の重要文化財)は、その中央1間(けん)分が低くなっている。
祭典に関わる者は、拝殿の左右に分かれて着座し、拝む時は中央の低いところに降りて拝む。
「割り拝殿」のような土間ではないが、前方の禁足地を拝むため、このような1段低いところに降りて拝む。

このような神体を祀る施設としての本殿がなく、岩や滝、山などに神霊がこもられているとされる神社、あるいは常設の御殿が建つ前の「屋代」の姿のままの神社のあることや、神を拝む施設としての拝殿が「割り拝殿」になっている神社は、各地でみられる。
それらのうち、特定の期間のみ仮設の建物を建てて祭りが行われる神社では、祭りが終わると仮設の建物は撤去され、新しい建物を建てるまでの間、清らかさを保持するために「しめ縄」を張って置く。
かかる措置を行って翌年、建物を建てるまでの間「聖なる敷地」となるが、その時の敷地の名が「屋代」であり、後になると「屋代」形式で祭祀を行う施設の名を「屋代」というようになる。
さらにその後、常設の「御屋」へと移行した神社を「屋代」と呼びつつ今にいたるのである。

以上のようにして、神社は成立した。

 

第8回に続く

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

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