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高千穂神社 後藤宮司のお話し

2023年11月2日(木)高千穂神社にて

こんにちは。
先日、宮崎県の高千穂神社にお参りに行き後藤宮司にご挨拶ができお話を伺わせていただきました。
後藤宮司は白袴でお越しいただきました。
ありがたいことですね。
このお話を皆さまにも。

ありがとうを世界中に
Arigato all over the World

 

 

日本の文化をどう残していけるのか

<葉室>
先日はとても嬉しいご縁をいただきましてありがとうございました。
あの時に色々とお話もさせていただき、今日もわざわざお時間をいただきまして感激でございます。
本当にありがたいことでございます。

<後藤宮司>
葉室先生(私の叔父のことです)が子供向けに書かれた本がございますよね。
子供が小さい時に買ってあげたんですよ。
丁度最近、子供部屋の方が昼間暖かいものですから、子供部屋に行ってちらっと本立てを見ていたら、葉室先生の本が4冊あったからなかなかいいなと思いながら読んでたのですよ。
葉室先生はお医者さんの視点から色んな事を説いていらっしゃるから、これもまたわかりやすくて。

<葉室>
私達も含めてかもしれないですけど、いつの間にか日本の素敵なこと、日本の文化というものが分からなくなり忘れらてしまった時代に入って来ているのかなと思います。
また、これからどう伝え残すかという事が、宮司様始め皆様、この年になった人、私達と しての責任で何が出来るのかなという所があると思います。

<後藤宮司>
そうですね。
遅れた感はしますけれども、日本人が日本人を取り戻すような空気が世の中にありますので、出来る限りそういうお考えの人達で、一人でも二人でも少しでもそういう人を作っていけば、明るい展望が開けるんじゃないかなと思って います。
それこそ一昨日の話です。
今もあるのですが、戦後、私達が子供の頃に「音羽ゆりかご合唱団」という児童向けの合唱団がありましてね。
「音羽ゆりかご会」というのは、私が子供の時代に合唱団に入って今も活躍している人といえば、歌手の由紀さおりさんとか、松島トモ子さんとかそういう方がいらっしゃいますね。
創設者の3代目になられる方が、海沼さんといって、50歳くらいになられた方ですけれど、熊本で公演があった時にこちらに来られました。

 

 

音楽を通じて美しい日本語を

<後藤宮司>
日本の子供達に、音楽を通して美しい日本語を覚えさせていくという事をなされているのです。
というのは、明治時代に明治維新になりましても、私達も使う事がありますけど、「あなたのお国は?」とか言いますよね。
「新潟です。」とか「高知県です。」とか答えますよね。
とにかく明治維新の後は、東北から来た方とか九州の鹿児島から来た人が話しをしても、言葉が通じなかったそうです。
言葉や言語がまるっきり違った時代ですね。
だから、明治維新政府としては、特に富国強兵で軍隊を近代的な軍隊にしないと他のアジ ア諸国のように欧米諸国の植民地化にされてしまうという事で、軍隊に力を入れますよね。
全国から集まった兵隊さんが、戦争の傘下に言葉が通じなかったり、誤解をしますと大変な事になりますよね。
ですから、早く日本人が共通の言葉を、標準語を喋るようにしなくてはいけないという事で、言文一致運動など色々あったのです。
言ってみれば、明治維新以降に私達が使っている言葉は、新しい日本語なのです。
新しい日本語と言ってはおかしいのですけれども、そういう中で、国語の教科書でですか、東北から北海道、九州まで、文部省の作った同じ言葉を使って勉強しているという事なんですよ。
それでも、なまりがあったり色々するので、その時に、音楽は発音とか音程とかそういうものが厳しいですから、音楽を通してみんなが共通の美しい品のある日本語を使うようにしましょうと。
そして、市民平等社会が出来ましたから、身分の高い人、低い人の子供も、同じ言葉で会話が出来ないといけないという事で、それで北原白秋とか夏目漱石とか、そういう有名な詩人達が詩を作って、そして作曲家が曲を作っていったのです。
そのころに海沼さんのお父さんが作られたのは、「みかんの花咲く丘」、「里の秋」などです。
たくさんの作詞家、作曲家が童謡を作って、東北の田舎の子供も東京の子供も九州の海辺の子供も同じ歌を歌う事によって、先生がピアノで発音をしっかり教えます。
そういう風にして、日本語が統一化されていったという事ですね。
そして、「音羽ゆりかご会」というのは、単なる共通の言葉を話すだけじゃなくて、人間、子供の情操、戦争で親を亡くした子供とか、貧しくて売られていった娘さん、誰が歌っても、心を癒して希望を持てるような歌を作ったのです。
戦後は、「音羽ゆりかご会」は、言い換えてみると、少年少女合唱団みたいなものをお作りになったのです。
それが、ウィーン少年合唱団なんかが来た頃からですね。

 

地道なことを大切に

<後藤宮司>
もっと欧米風の歌をという事で、いつの間にか文部省もそういう流れに乗って新しい歌を教科書にも推奨していきました。
それまでは、日本の情操、情緒を基調としたものだったのですけれども、時の流れと共に、音楽の時間に昔の古い歌を全部教えなくなって、「荒城の月」とか、そういう歌も教科書から姿を消したわけです。
ところが、それは単にその時代の流れの中であっただけではなくて、一種の革命勢力が巧妙に働いており、そういう人達の話し合いの中で、伝統的なものを段々なくしていこうとなっていったのですね。
戦後のアメリカの占領政策の影響ですかね。
そういうものがあったという風に、海沼さんのお父さん達も、当時は多分そういう話をしておられたんじゃないかと思います。
海沼さんご自身としては、時代背景のそういった事は、はっきりした認識を持ってはおられなかったのじゃないかと思います。
しかし、海沼さんがある事で宮崎に来られて、神社にお参り頂いてお話しする機会があり、色々話をしたら、間違いなく、「後藤宮司のお話を伺って、自分が感じている事と同じ様な考え方を持っている宮司さんがいたと思いました。もう一回訪ねて来ます。」という事 で、それそこ2~3日前にここにお見えになったんですよ。
熊本で合衆団の90周年コンサートがあったようで、朝早くに発ってこちらに来られたのです。
そこでまた色んなお話をしましたら、これから先、合唱団をどうやって残していったらいいかというお悩みを持っておられました。
その「音羽ゆりかご会」は三笠宮様が法人の後援をしていらっしゃるのですけれども。
とにかく、何でも身近なところからコツコツやらない事には出来ない事で、私の経験も踏まえて色んなお話をしましたら、多少のヒントになるものもあった様です。
七五三の時に子供が沢山来ましたでしょ。
早速、境内で童謡を流したり、その詩を見たりすると良いんじゃないかなと思って、そういう地道なところから始めたりしないとですね。

<葉室>
境内で流れていたらみんなが自然と口ずさむのではないですか。

<後藤宮司>
はい。
そして、その歌を知っているお婆ちゃんやお爺ちゃんたちが沢山いますのでね。

 


マークエステルさんが高千穂神社に奉納された絵です

 

お菓子屋さんが動揺を

<後藤宮司>
そして、延岡にあるお菓子屋さんで、この辺までお菓子を売りに回って来る人がいるのです。
結構大きなお菓子屋さんなのです。
ご主人が面白い方で、高千穂の田舎の方まで時間を決めて回られているのですが、ずっと童謡を流しているのですよ。
その歌が聞こえると、農村の方達が「あ、お菓子屋さんが来たな。」と、わざわざ買いに行かなくても、ちょっと手を置いてついでにお買い求めになられてですね。
その方から海沼さんを紹介されたのですけれど、丁度こちらに回って来る日になっていまして、その方も海沼さんと来られましてね。
(余談:そのお菓子屋さんは元々は名前は「とらや」さんだったのですけど、東京の有名な「とらや」と間違えられるものだから、被害を受けると困るし一緒はまずいという事で 「とらひこ」と名前を変えられたそうです。)
その方の話を聞いたら、お菓子を買いに来たお婆ちゃん達が帰らないんだそうです。
「動揺がもっと聞きたい。」と言って。
音楽というのは、人の心に沁み入ったら、いくつになってもそれを聞くのが楽しいという事なのですね。
「えー、童謡が?」と思うかもしれませんが、あの時代、大正時代などは、小学校を卒業して働いていましたから、みんなあまり学校を出てません。
ですから、小学校時代に音楽の時間で習った歌だけが、やっぱり自分達の思い出なんですね。
父や母の思い出にも繋がるし、友達との学校生活の思い出もある。
それが普段聞けないものですから、お菓子屋さんが来て流してくれると喜ばれて聞かれているのですね。
良い音楽は時代が変わっても残るから、万葉集でも古今和歌集でも、良い歌は詠み継がれ歌い継がれていくわけです。
なので、あれだけの一流の作詞家が作曲家が作った音楽というのはきっと残ると思いますから、私も早速CDを送って貰う事にしました。
七五三の時もそうですが、とりあえず、この辺りの幼稚園とか保育園に寄付して配ろうかなと思っています。
地道な事から始めないとですね。
それが例えば保育園の会議だとか宮崎県の会があった時などに、これを流したら子供達がゆっくり眠れる様になったとか、乱暴な子がおとなしくなったとか、そうなると「うちも」と事になりますし、そういう話を色々したところなんですよ。

 

歌から自分達の色んなイメージを

<葉室>
宜しいですよね。
正しい日本語というと変ですけど、日本語はそこに色々な絵が浮かぶではないですか。
それをそれぞれの方が、イメージしながらちゃんと日本を知るという事は素敵な事ですね。

<後藤宮司>
はい。
海沼さんがお見えになる前の晩に、私は宮崎の方に用事があって夜遅く帰って来ました。
何気なくテレビをつけたら「フォレスタ」というグループが歌っていて、童謡ばかりの番組がたまたまありました。
それを聞いていたら、昔の童謡というのは、意味は不明なのですが、「月の砂漠」でも、 王子様とお姫様が月の砂漠をゆく、別にストーリーがある訳じゃないのですけど、何かそこに、逆に歌から自分達の色んなイメージを想像出来るものがあったりしますね。
物事をはっきり具体的に言わないのですが、その歌の中に心が癒されるものがあったり、子供の時分にお母さんを亡くした人だったらその感情がわかる。
そういう人が身近にいたら理解出来るのですね。
やはり当時の日本人というのは、素晴らしい精神性を持っていたなと思います。
だから、時々話すのですけれど、戦前戦後、軍国主義とか、日本人を鬼のように言う人達がいますけれども、戦前とか大正時代に作られた童謡とか歌謡曲でもそうですが、あれを聞いたら、日本人はみんな優しいですよ。
戦争の時の文化でも、日本の文化というのはちっとも生臭いものはないのですよね。
外国の文化とか中国の文化といったら、露骨に相手を責めるのですよ。
「殺せ」とかいう歌があるように。 日本の場合には、戦後にしても、例えば「月月火水木金金」でも、オリンピックの歌にしていいような、何にも激しいものはないのですよ。
私は、歌を聞くだけで日本人が特別に荒々しい軍国主義的な人間だったとは思えないですね。

<葉室>
これから、例えば私の孫とかでも、そういう童謡を聞く耳があるかわかりませんが、どこかで何気なく流しておくと、何かを感じてくれる事が大切なのかなと思いますね。
現代の走り歌、流行っている色んな歌も沢山ありますけれども、また違った童謡というものは、日本というものを大切にした思いの中で出来ている歌でしょうから。

 

音楽は人の心を落ち着かせますね

<後藤宮司>
ただ、今の子供達は貧しさとか色んな経験がないですからね。
私達の子供の頃は、貧しいというのは本当に貧しかったわけで、今はもう生活保護法とか色々な福祉があり、学校に行きたくてもいけない子も、場合によっては大学まで無償にしてくれる所もありますしね。
そういう時代ですから、ピンと来ない点があるかもしれません。
やはり、その当時に行きたくても行けなかった学校があって、寂しかった悔しかった思い出のある人、それでも自分の職場で一生懸命働いて生きた人には生きた人の人生というのがあります。
そういう事がなかなか今の子供達にすぐに理解されるとは思いません。
けれど、音楽は音楽ですから、良いものは伝えていきたいですね。
ある時、本を読んでいましたら、第一次中東戦争が起きた時に、イスラエルに旅行か仕事かで行っていた日本人が、イスラエルの人と話していたら、急にアラブ側からミサイルが飛んで来て、急いでシェルターに避難しましょうという事で、イスラエルの地下のシェルターに避難したんだそうです。
そして沢山の人が集まっていると、ユダヤ教のお坊さんのダビが、聖書といいますかユダ ヤ教の律法を読んで、みんなを落ち着かせるそうです。
神が守ってくれるのだとか、神を祈りなさいとかという事をです。
そしたらその後に、赤とんぼの曲がかかったそうなのです。
夕焼けこやけの赤とんぼですよ。
それがですね、向こうの演奏でやると、また素晴らしいアメリカ風の赤とんぼの演奏だったそうなのです。
日本人がいるから気を遣ってくれているのかなと思ったら、そうではなくて、このメロ ディは、人々の心を落ち着かせるのだと言うのだそうです。

<葉室>
やっぱり心に響くのですね。

<後藤宮司>
私達は「蛍の光」を歌います。
でもあれはスコットランドの民謡ですよね。
私達の頃は、卒業式の時は必ず「蛍の光」を歌わされていましたから、日本の歌と思っていたのですよ。
そしたら、学生時代に「哀愁」という映画を観たら、「蛍の光」の曲が流れるでしょ。
あの曲はスコットランドの民謡だったのですね。
それに日本語で歌詞をつけて「蛍の光」という曲になっている。
それと同じで、向こうの人も日本の曲を演奏しているのですね。
イスラエルの人は親日的でしたからね。
命のビザといって、戦争中にビザを発行して、みんなを逃がしてあげた方もいましたからね。
愛知県名古屋の杉原千畝さんといって、6000人くらいのユダヤ人を救ったのですね。
杉原さんの事ばかり言われていますけど、 宮崎県も小村寿太郎など外交官が沢山出ているのですよ。
2人くらいの宮崎県の外交官も、それぞれの国で、ユダヤ人を安全な所に逃す為にドイツの圧力がかかってもビザを発行させてあげたそうですね。
だから日本に対して理解があったのではないでしょうか。

 

 

ありがとうございます

奥さまがお菓子を持ってきてくださいました。
ありがたいです。

<葉室>
叔父の話になるのですが、晩年、子供達に読んでもらいたい、神道の事を知ってもらいたいという思いで童話的に書いて、後にお母さんへという形を加えながら、今もお話して頂いたように、大切なことをどう残していくのかという思いで書かれた本ですね。
叔父が奈良の春日大社の宮司ですが、私の大好きな祖父は京都の下鴨神社の宮司でした。
私は小学校の時、行くのが一番嬉しいのが、下賀茂神社の宮司のお部屋だったのです。
畳のお部屋、畳机の前に座られて、筆で書き物、絵を描いたりされているのを横でじっと見ているのが大好きでした。

話はまだまだ続くのですが、先ずはここまで。
後藤宮司からいろいろなお話し、そして今とても大切なお話しをいただきまして、本当に感謝でございます。
これからも日本を、日本の子供たちを、そしてすてきな文化を伝え残していかなければ。

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

 

この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.

#ありがとうを世界中に
#ArigatoAllOverTheWorld

 

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