二條さま古事記のお話しの2 第一話の3
神様はよこにおわします
神社に行ったら、〇〇明神という、名前が付いている以外の神社は、目の前に神様はいな いのです。
そこの神社に行ってお祀りをすればすぐわかります。
お祀りする時の前に神様をちゃんと呼ぶからです。
太鼓を打ったり祝詞をあげたり、神様は上におわすのです。
そこには居ません。
でも、明神というのは、そこにいるという神様なのです。
例えば、神田の神田明神は、平将門公がそこに寝ておられるのです。
そのように、明神というのは、目の前にいます。
ですが、それ以外の神様は、いないのです。
神様は目の前におわさず、横におわします。
同じ目で見ておられる。
同じものを見ておられるから、ここにおわします。
したがって、神社に頭を下げても、神様に頭を下げた事にはならないのです。
神観念
お家にいる神様は一緒についていきます。
今から20年程前なのですが、ちょうど私が新嘗祭の時にロンドンに来てくれと言われ た事がありました。
困りました。
新嘗祭どうしようか。
1度も絶さずやっていますから。
そうした時、弟子がこう言いました。
「神様は天におわすのだから、ロンドンでやったらいいのです。 ロンドンで手に入るものでお祀りしたらいいのですよ。」
「なるほど。」と思いました。
神様は目の前におわさず、天におわす。
何処にでも来て下さる。
我々日本語を介せば、「来て」と言えば来るのです。
その、「来てと言えば来る」という風に思える事が、「神観念」というのです。
「その人の、神様に対する観念がある」という事なのです。
これは、哲学の話なのです。
よく旅行に行かれる方は、小さな水玉を持って動いてらっしゃる方もいます。
ですが、水玉を持って行く必要はありません。
旅行に行ったら、神様は、家ではなくて、そのままついて行きます。
ホテルだとコップが据えてありますので、ホテルのコップで宜しいのです。
そのコップで、そのままでも構いません。
勿論、10分の1の小さいサイズのものを持って行くという人も、それも良いです。
ですが、ホテルでするとなると、部屋を出る時にその水をどうするかという話になりま す。
そのお水をどう扱うかという事にもなってくる訳です。
持って行くという人が、その後のお水の扱いが困ると言うのなら、飲むでも捨てるでもなんでもなさったら良いのです。
要は、「最初にあげた」という、その所作が重要なのです。
水はとても大切
神殿の水玉を下げる時にも、お祀りはないのです。
何故なら、あげた時にもう召し上がっているから、もはや下げるのにはお祀りはないのです。
本当は、「撤下の伝供(てっかのてんく)」というものをやるのですが、今は忙しいのでなかなか出来ません。
実は神社では、大きなお祀りをやる時には、皆さんが入ってくる前に、全員の手を通って三方が上がっていくというお祀りをやっています。
全員の手を通って下る、全員の手を通って上げられた、大切な水。
「それほど大切にしたよ」というお祀りです。
これを「伝供」といいます。
ですが、「下す」という事について言うと、伝供ぐらいしかないのです。
神様にあげたそのお水をどう扱うかということについてもう少しお話しすると、 毎日であれば、例えばお米の中に入れてもいいのです。
もしくは、お茶を飲む時にそこに入れても構いません。
地面に撒くというのも、水道で流すというのも功徳の一つだと思います。
ただ、半月に1回とか、ひと月に1回だとなると、ちょっと飲むのは嫌ですが、植木に やったら良いと私は考えています。
勿論、お便所に流しても構いません。
お便所は我々の最後のものが出て向こうに行くんだという風に考えると、それで流してあ げる事によって循環して、またお水は戻って来るという感覚にもなります。
だから、どこに流しても、どうしてもいいのです。
飲んでしまうという人もいます。
1日ぐらいだったら飲める、と。
それは、神様が映った水が身体に入るという事です。
今みたいに、水道の蛇口をひねったら簡単に水を得られるという時代ではなかった人々は、そのお水をちゃんと大切に扱ったと思います。
遠い場所から汲んで来て、それを神様を映す所まで持って来る。
その様な大変な時代の人達は、それをこぼす時は、例えば手を洗う為に使ったとか、顔を洗う為に使うとか大切にしていたと思います。
ですが、蓋が開いているから埃が入るし、口の中に入れるのはちょっと思われる方はどうされても大丈夫なのです。
人間界の「掟」
我々にある観念、これは不思議で、「これをやると祟られてしまう」という気がついていると、祟られてしまうように思うのです。
それを解消することは難しいのです。
例えば、子供の頃からおばあさんに、「神棚には、そんな悪さしちゃダメだよ。」と叱られながら来るのですから。
宮中からお嫁に来た私の曾祖母は、お祀りが終わったら「あそこにある神棚のみかんを取っておいで、それも、ママやパパに見られないように 取って来なさい。」と言いました。
取って来ると、曽祖母は、「偉かったね。取って来たね。じゃあ、おばあちゃんと半分こ しようね。」と言いました。
お祭りを冒涜するのではなく、曽祖母はそういうお祀りをさせたのです。
実は神様にあげられたものというのは「宝」なのです。
それをこっそり取ってくる事が出来るのは、「宝を持って来たこと」になるのです。
昔はそういうお祀りがあり、今も残っています。
それを「月見」といいます。
「月見」は、お団子を沢山のせます。
お団子は全部盗まれる為にあげるのです。
それも、見られては駄目なのです。
神に見られないように、一つずつ持って行って、沢山なくなればなくなる程その家は幸せになるといいます。
ですから、月見の団子は沢山あげるのに限ります。
昔は、大きい家などは、お月見の時には子供達を入れて、「こっそり持って行きなさい。」 と言ったものです。
これはお祀りなのです。
バチは当たりません。
しかし、「持って行きなさい。」と言われた「心の傷」というものはちゃんと取っておいてあり、それが、「あ、お祀りが終わるまでは取っては駄目なんだ。」という結果になっていくのです。
それが、人間界の「掟」になるのです。
この「掟」というのは、法律ではないのです。
「うちの掟」は「神観念」
「心を縛るもの」、「掟」と言うのです。
「必ずお天道様が見ている」と思わせられている。
でも、本当は見てはいないから大丈夫です。
やって大丈夫なのです。
そういうものをうえつけられているような世代、例えば私などはその世代の最後だと思っているのですが、掟のようなものを沢山教わりました。
「こういう時にこうしてはいけない」だとか、「こういう事にこうしてはいけない」だとか、「こういう時はこんな事を言ってはいけない」などの沢山の掟です。
それは法律でもなんでもなく、「うちの掟」なのです。
だけど、それを頑なに守ろうとします。
これを「神観念」と言うのです。
お水を備える場所、どこに置くかというのは自分で決めて下さい。
例えば、窓辺、タンスの上、お膳の上、どこでも構いません。
高さもどこでも構いません。
方角もどこでも構いません。
本当は、神棚は北を背にして南に向くというのが一番のあり方だという風に言われていますから、北側に置いてあれば、南側に神様が向くという事になるのだけれど、今はそこま で考える必要がありません。
どこでも構いません。
勿論、ご自身でお持ちの神棚をそれに当てても構いません。
「水を入れて、蓋を開けておいたままにして、その蓋は閉めるか閉めないか。」 ここは重要な事です。
基本ずっと見て欲しかったら、ずっと開けておいたらいいのです。
いつだって過ごされたいだろうし、いつだって映したいでしょうから。
ただ、一回一回お祀りだと考えている人は、閉めて下さい。
ずっと一日中開けておいてもいいし、蓋がないコップだとずっと晒される訳ですから、閉めても閉じても良いのです。
この講座が終わった時には、きっと自分の祭祀が出来てきます。
自分の神観念が出来てくるのです。
自分のお祀りの方法が出来てきます。
お祀りの方法とは、千差万別です。
神社に行っても、やって下さる神職さんによってやり方も声も全く違います。
その法祭(ほうさい)の仕方というのは、まちまちなのです。
どうしたらいいかと言われれば、「閉じたければお閉じすればいい。」
ただ、そうしたら神様はお飲みになる事が出来ない、常に飲んで頂きたい、常に神様を映しておきたいというのであれば、開けておくのに限ると思います。
ありがとうございます
水玉の所作については、 もう水が入ってる場合については、添える、当てる。
この事を「扱う」と言います。
手を添える事を「扱う」と言います。
「手が及ぶ範囲で大切にする」という意味です。
扱う為に蓋がのっていますから、蓋をのせて、そのまま運びます。
もっと良ければ、目の上にあげます。
「目通り」と言いますから、目より上にあげます。
何故かというと、息がかからないからです。
目通りで持って行きます。
凄くたわいもない所作ですが、するのはとても大変です。
水玉は、目通りで持ってあげるというのが基本です。
ただそれだけではなくて、 「膝行」と言って、このまま膝をついたまま、肩を動かさないで運びます。
水玉の蓋にも所作がありますが、この水玉の扱いについてそれをやる必要はありませ ん。
何故なら皆さんは神主さんや巫女さんになりたい訳ではなく、 「神様にお水をあげたい」という心の問題であり、実はそんな事はしなくても良いからです。 そのまま入れたら、そのままあげるだけでもいい。
それで良いのです。
そこに映れば良いのですから。
重要なのは、「ここに映るものが入っている」という事だけが重要だからです。
その付随として、神様がこれを飲まれる。
きこしめられる。
きこしめされるかもしれないという付随がついてくるだけです。
神様は飲まないのですがね。
今日は、古事記の一番最初の「アメノミナカヌシ」について、 「アメノミナカヌシ」というのが「水」であるという事。
そして「神観念」というものがこういう風にして生まれてくるのだという事。
神器の扱いについてという事を、皆さんにご講議させて頂きました。
今日も最後までお付き合いくださしまして、ありがとうございました。
二條さま古事記のお話しの2 第一話の1
二條さま古事記のお話しの2 第一話の2
二條さま古事記のお話しの2 第二話の1
この星が笑顔あふれる毎日となりますように。
Hope there will be a smile everywhere, every day.
これからの子供たちに幸せな世の中となりますように
Wish the world will be full of happiness with children.
#ありがとうを世界中に
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