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葵太夫 日本最古の花街「嶋原」

 

こんにちは。

 

昨日は葵太夫が辰巳満次郎さんの「第三回大阪満次郎の会『月濡慕舞』」の能舞台で、かしの式、一絃琴演奏、朗読を。

はじめて一弦琴の音色を聞きました。

一弦でここまで心に響くとは、一弦だから響くのかもしれませんね。

そして、満次郎さんの「松風」。

一番前でくぎづけ。

慕う相手を待つ女の哀しさ一途さを、とっても素敵でした。

さて、葵太夫を何度か紹介してますが改めて太夫のことを。

葵太夫のお母さん、司太夫が書かれたお話より。

 

 

 

日本最古の花街「嶋原」

 

日本で最も古いこの花街は、応永四年(1397 足利義光のころ)には、七条東洞院あたりにありました。

応仁の乱などの戦の影響で転々としていましたが、天下を統一した豊臣秀吉が「京の都を繁栄さす」ために、天正一七年(1589)、二条柳馬場あたりに移し、日本初の「公許花街」となりました。(柳町と呼ばれました)

徳川家康の時代になり、慶長七年(1602)六条三筋町へと移ります。

寛永十八年(1641)に現在の場所へ急な移転を命ぜられ、その時の混乱の様子が「まるで島原の乱のようだ」と言われ、いつしかここを「島原」と呼ぶようになりました。

周囲を塀で囲み門を構えて夜間はみだりに出入りを許さず、あたかも城郭(曲輪)のようだったので「廓」という言葉も生まれました。

お客様は「公家」「大名」で、格式も高く、今日の花街の総元締めでもありましたが、明治維新により公家・大名がいなくなり、繁栄を誇った町も衰退していきます。

現在は、「末廣屋」「輪違屋」の二件だけで資料館となった「角屋」と大門だけが面影を遺すのみとなりました。

 

太夫とは

 

「太夫」とは、官位「正五位」の別称で、十万石の大名に相当します。

舞妓・芸妓が町衆文化から生まれたものに対し、太夫は宮中文化から生まれた文化です。

そのため公家や武家の女性と同様の教養を持ち、技芸に優れたものだけに位を与えられました。

それをもって御所へ出入りし帝の宴席にも呼ばれておりましたで、それだけの芸と教養を必要としています。

現在でも歌舞音曲は元より茶を点て歌も読みます。

髪は自毛で結い上げ、鼈甲や銀・珊瑚の櫛・簪(かんざし)を挿し、その数は二十一本。

口元はお歯黒をほどこし、公家の化粧の面影を残しております。

衣装は十二単を簡略化したもので、帯を前で結び「心」という字を表し、襟元は襟を返して緋色を見せて太夫の位を表しています。

また、豪華な衣装に比べ足元は素足で「位を持っていても一歩控える」という意味を持っています。

そして、「三つ足」という三本歯の高下駄を履き、大傘をさし、禿を従え、「内八文字」という独特の歩き方で「太夫道中」をいたします。

その総重量は三十kg近くあります。

 

 

ありがとうございます。

 

太夫の一つ一つをとってもみても知らないこと、学べることがたくさん。

緋色とは?

聖徳太子の冠位十二階では十二の位を色で表していました。

昔は官位によって色が決められていたのですね。

はい、緋色とは、やや黄色味のある鮮かな赤で、平安時代から用いられた伝統色名です。

「延喜式」では茜と紫根で染めた色を深こき緋とし、紫に次ぐ官位に用いました。

その次の官位が茜だけで染めた浅うす緋といいました。

現在、太夫さんは五人。

いつまでも残し伝えたい太夫。

葵太夫、これからも頑張ってくださいね。

また、浄住寺で宴をよろしく。

 

和の素敵は京都 嶋原 末廣屋の葵太夫を応援しています。

 

参考
葵太夫 島原で新しい太夫さんが誕生しました。
葵太夫 素敵です。
葵太夫 日本の心、おもてなし
葵太夫 一周年

 

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