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「神社と神道の歴史」第2回 著:白山芳太郎

「神社と神道の歴史」第2回

                  

狩猟採集生活時代に、日本人は土器を作りはじめた。

土器を持つことにより、狩猟や漁撈(ぎょろう)で得た獣、魚、採集生活で得た木の実、さらに初期農業が開始されると栽培植物を加えて「ちゃんこ鍋」のような食事を作って食べた。
火を入れることにより消毒され、寿命が延びる。
また鍋料理は温めなおすことが出来る。
そのような他国では見られない狩猟採集生活が、日本各地で行われた。
それが縄文時代で、そういう時代が1万年続く。

 


(国重文 深鉢形土器 縄文草創期 群馬県下宿(しもじゅく)遺跡出土 太田市立新田荘歴史資料館 文化庁データベースより)

 

縄文時代の遺跡の代表的なものに、陸奥湾の三内丸山遺跡(青森県)と真脇湾の真脇遺跡(石川県)とがある。
この2つの遺跡は、それまでの縄文遺跡の常識を覆(くつがえ)すものであった。
それが、今や、縄文時代を代表する遺跡なのである。

 


(三内丸山遺跡 Wikipediaより)


前者の遺跡では、縄文前期の中葉から中期の末葉まで(5500
年前~4000年前の1500年間)定住した。
後者の遺跡では、縄文前期から晩期まで(6000年前~2000年前の4000年間)定住した。
かつて、縄文期は定住せず、弥生期になって定住すると説かれた。
そのような常識は覆(くつがえ)った。

しかも両遺跡は、それぞれ祭祀のための「大型掘立柱遺構」を中心とする遺跡であった。
そのまわりに「竪穴式住居」がみられ、その地で祭祀を行いつつ、1500年(三内丸山の場合)、もしくは4000年(真脇の場合)定住した。

ころで、真脇では、イルカの骨が、縄文各期の層から当該時期の縄文式土器とともに出土した。
真脇湾にやって来るイルカにより、継続的な食を得ていた。
それにより、人々は定住していた。

 


(真脇湾 真脇遺跡縄文館公式ホームページより )


真脇湾における「大型掘立柱遺構」の周りから出土したイ
ルカの骨は何を意味するのであろう。
真脇湾に来るイルカで継続的な食を得ていたという以上の意味がある。
あらゆるものに「カムイ(神)」が宿るとする信仰を持つアイヌの人びとの「熊送り」(アイヌ語で「イ・オマンテ」といい、「イ」はそれを、つまり熊の霊を。「オマンテ」は送る)を参考にするならば、イルカの霊を天に送り、霊を送ったイルカの一族のだれかが次に来てくれるよう祈ったのではないか。 

記紀(古事記・日本書紀を総称して記紀という)によると、人類が類人猿から分かれて間もないころの記憶があったようである。人は天と地の間が近いため、天の下をせぐくまって歩いたと言っている。
直立歩行が不完全だった時代の記憶であろう。

また、氷河時代が終わって間もない時代、地面がぬかるんでいた時代の記憶もあったようである。
歩く時に抜き足・差し足して歩いたと言っている。
しかも、天と地の間に「天(あめ)の浮橋(うきはし)」という天地を行き来する「はしご」が組まれていたという。
その「はしご」を利用して、おのずから凝り固まった島(オノゴロ島)に下りてきたというのである。

 『風土記(丹後国風土記)』にも、そのような「はしご」の一つらしい伝承がある。
それは、イザナギノミコトが天と地を行き来するために作ったといい、名を「天の橋立」であると記している。
これは「天の浮橋」と同種のものではないか。

 


(天橋立:白山芳太郎撮影)


真脇遺跡は平成元年に国の「史跡」に指定された縄文期の長期定住型遺跡である。

その遺跡をそのまま公園として整備したのが「真脇遺跡公園」である。
園内からはその地が湿地帯のため、多数の木製品が、土に戻ってしまわず出てきた。
特に掘立柱の柱穴と柱の根が出土した。
それをもとに復元すると、直径1メートルの栗の木を10本、サークル状に並べた環状木柱列(祭祀用とみられる)となった。
このような環状巨大木柱列は、地上からみた「天橋立」であったと思う。

この『風土記』の記載によると、「天橋立」はイザナギノミコトがいねむりをしたとたん、バタンと倒れて、今のようになったとある。
これを、単なる砂(さ)嘴(し)から空想した架空の話とみてよいのであろうか。 

 

「天橋立」のある宮津は「宮のある津」という地名である。
「宮」というのは、何という宮であろうか。
また「天の橋立」は宮津湾に面した地、真脇遺跡は真脇湾に面した地、三内丸山遺跡も陸奥湾に面した地であった。
そうすると、真脇湾の「10本柱」や陸奥湾の「6本柱」のような祭祀施設が、「宮のある津」宮津湾にもあったのではないか。
その祭祀施設で、宮津湾にやってきたイルカの霊を送っていたのではないか。

真脇湾と宮津湾のほぼ中間にある敦賀湾では、『古事記』によると、異母兄弟との戦いが終わって、戦争の穢(けが)れを清めるため禊(みそぎ)にやってきた即位前の応神天皇と、気比(けひの)神(かみ)が名の交換を行ったとある。
角(つぬ)鹿(が)(後の敦賀(つるが))の仮宮で寝ていると、夢の中でイザサワケという神が現れ、名を交換しようと言う。
交換に応じると「明日の朝、海岸に出てみるように」と言われる。
言われたように出てみると、神から贈られた入鹿魚(いるか)があった(この話は『日本書紀』の別伝にも書かれている)。

こに、イルカの霊を送る祭祀施設として真脇湾の「10本柱」のような祭祀施設が誕生するのではないか。
その後、祭祀施設の発展があり、現在の気比神宮(越前国一宮)となったのでないか。

 


(気比神宮 Wikipediaより)


敦賀湾と宮津湾、また能登の真脇湾はいずれも同じような地形である。
宮津湾にもイルカが継続的にやってきて、その霊を送る施設があっておかしくない。
「天橋立」は全長3.2キロの砂嘴(さし)である。
そこに、もともと空中楼閣としての祭祀施設、すなわち「橋立」があったのであろう。
しかしその役割を終え、いまは籠(この)神社(丹後国一宮)という形で、その祭祀が続けられたのではないか。

 


(籠神社 Wikipediaより)


籠神社は、「ヒコホホデミノミコト」(山幸彦)が籠(こ)に乗って現れたという伝承に基づき、古くは社の名を「籠宮(このみや)」と呼んだ。
後になって、兄「ホアカリノミコト」(海幸彦)を祭神とするようになり、その子孫が同社社家の海部(あまべ)氏となった。
籠(こ)という字は『日本書紀』では「籠(かたま)」と訓読されている。
籠(かご)舟(ぶね)のことであり、今もベトナムで使用されている。

 


(船の博物館所蔵 籠舟 同館ホームページより)


同社の別名を「匏宮(よさのみや)という。
「匏(よさ)」とは瓢箪のことであるから、ひょうたん型に編んだ籠舟だったのであろう。

『 古事記』の海幸山幸の段で、山幸彦が「海(わたつみ)の宮」に行くとき乗った舟の名を「無間(まなし)勝間(かつま)」と呼んでいる。
この舟に対して『日本書紀』は「無目(まなし)籠(かたま)」と呼んでいる(同書別伝では「無目(まなし)堅間(かたまの)小船(おぶね)」)。

 

三重県鳥羽市の船の博物館は、ベトナム南部フーカイン省で、イカ釣りに使っていた2隻の籠(かご)舟(ぶね)(直径170センチのものと直径180センチのもの)を入手し、同館へ運んだ。
届いた舟は御伽(おとぎ)話(ばなし)の一寸法師が乗るお椀(わん)のような舟であった。
しかも牛糞(ぎゅうふん)とヤシの実の油を混ぜたものを塗って「目止め」がなされていた。
まさに「無目(まなし)」の籠舟であった。

「目」の上代音は「ま」であり、そういう古い発音は「複合語」の中に残るケースが多い。
目のふたを「まぶた」という。
目の毛は「まつげ」である。
その他「まばたき」「まなざし」「まなこ」など、目のことを、今も「ま」と言っている。
ここでは、竹かごの目を、しっかり「目止め」することを「まなし」と言うのである。

 

第3回に続く

序文は、 https://wanosuteki.jp/archives/29021
第1回は https://wanosuteki.jp/archives/29084

 

白山芳太郎 プロフィール

昭和25年2月生まれ。
文学博士。皇学館大学助教授、教授、四天王寺大学講師、国学院大学講師、東北大学講師、東北大学大学院講師などを経て、現在、皇学館大学名誉教授。

おもな著書に『北畠親房の研究』『日本哲学思想辞典』『日本思想史辞典』『日本思想史概説』『日本人のこころ』『日本神さま事典』『仏教と出会った日本』『王権と神祇』などがある。

 

 

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